『上飯田の話』(監督:たかはしそうた)

たかはしそうた監督『上飯田の話』を見る。上映時間わずか一時間と少し、しかも三つの話に分かれているから仕事終わりなど疲れた頭で見るのにちょうどいいかもしれない。しかしオムニバスと言い切るには単純に繋がりがあるから引っ掛かるというより、そもそもどれも「そこで終わるのか」となるため「何の話?」と言いたくもなる。いや、言うだけでなく考えるか、感じ取るべきか。『いなめない話』『あきらめきれない話』『どっこいどっこいな話』という三話の題名をそもそも自分がちゃんと頭に入れながら見たわけでもないが、思い返すと納得いくようで、そもそもどんな話だったか。

『いなめない話』は公園での生命保険の営業員が乾物屋にプランの説明を続ける固定ショットの、彼女に当たる木漏れ日の光が(登場してすぐのスニーカーからヒールへの履き替えと同じく)「営業員」の型に収まらない人物としての、つまりヒロインとしての何かを引き出そうとしているようで(それ自体は何の映画かはともかく既視感のある始まりだが)、むしろそれを理解しているのか掴みどころはないが聞き続ける乾物屋の男の丸まった後ろ姿の、どちらかといえば日の当たらない影のほうが気になってくる。それはプランというものの説明が頭に入ってくるようで来ないという経験は自分も含め多くの人にあるのだろうけれど、同時にそこでの話題の中心かもしれない「死」は誰の元へも必ず訪れることで、ボンヤリとも会話していられないから、ある程度は彼女の営業に真面目に付き合わなければいけない、そうした理解のもとショットを見続けていると、こちらの思考を読み取ったかのように、ある意味では乾物屋の(もしくは彼女を含め公園にいて、この「話」に付き合わざるをえない誰かの)主観というか意識が切り返してきたかのように、カメラはパンを始める。特に人物の動きを追うパンの微妙な忙しなさが印象深い映画だが、ここでは人物を追うわけでもない。その移動の際に映る60歳はいっていると思われる男性の現役感ある投球と、そのキャッチボールがもしかすると本作で最も忘れがたいアクションかもしれないが、一切映画の「話」には関わらない。またギターの旋律がわずかに聞こえて、自動車の行き交う音とともに妙に忘れがたい。そのカメラが動きをやめた後、営業員から乾物屋の側へ切り返して、彼が話し始めると、後ろ姿の時よりもどこか芝居をしているという感じがして、それでいいのか気にはなる(本作における「これでいいのか?」はカメラの前進するカットの挿入にもよぎる疑問だ)。また乾物屋の彼が会話の最中に携帯電話に出るのだが、その受け答えがいかにも上司にミスを指摘された営業マンであって、その声も聞こえやすすぎるようで、これでいいのかよくわからないのだが、その後の「電話大丈夫なんですか」「大丈夫です、たいしたことありません」といった意外と反省していない様子の(これも笑えそうで少し笑えない)彼が言うには電話の相手は妻だというので、さすがにこちらも営業員の側に気持ちが移って何やら少し薄気味悪いというか怖くなってくる。少し後に姿を見せる乾物屋の妻というのが、これまた店内の買い物カゴを提げてロングショットに映り込むので、最初はお客さん役のエキストラかと思っていたのだから、夫に呼ばれて近づいてくるというのに驚くが(ちなみに演じている吉田さんが知人、かつ俳優業はおそらく初めてなので、もしもキャストのクレジットも何も事前に一切知らないまま見たら、個人的にかなりのショックだったと思う)、この夫婦の体格差というか、その妻の作中でも目立つ意外な小柄さは(あまり外見的な特徴をあげつらう言い方も失礼だが)電話の受け答えの印象も相まって、おそろしく奇妙に見える。この微妙な気持ち悪さは解決することなく終盤まで持ち越される。

この種のキャスティングはじめ成功か失敗か宙づりにするような感覚は『あきらめきれない話』の兄弟(ふつうは逆にしそうなくらい)にもあり、弟の結婚式に行こうとしない兄への「普通じゃないぞ」という彼の怒りはわかるが、しかし何をもって「普通」か、そもそも普通であるべきか争ってしまう出来事自体が、いかにもこの『上飯田の話』らしい展開という気がしてくる。そして兄弟の音楽の趣味はわざとらしいくらい合っている。弟が兄の元へやはり引き返して喧嘩でもするつもりなのか「行くぞ」と決めてバナナの木を一周して、でも結局はワンショットのうちに許嫁の側へ引き返す動きのおかしさが、どこか本作の語りを象徴している気がしないでもない。また弟の許嫁がとる行動自体が「これでいいのかしら」というような落ち着かない気分から来るのだろうが、それが結果的に映画に何らかの「話」としての展開をもたらしたかもしれないが、その物足りなさが映画の最後まで結果的に維持される。そのテイストは上飯田ツインピークスを結ぶようだが、まあ、これはこちらの趣味に引き寄せただけの感想だ。

『どっこいどっこいな話』の「話」をする人物が酒屋にて複数出てくるので、本筋らしき人物の奇妙な趣味と絡み合っているのはわかるのだが、どうにもウェイトをかける場所がよくわからないのだが、その『いなめない話』とも通じる死をめぐる話へつながるような、夢をさまようような気にもなってくるカメラの動きまで確かに引き込まれるものはある。これは凄いショットなのかもしれないが、詳しく書くほど細かく覚えていない。公式サイトには飲み屋のテレビに映る中村憲剛の顔が真っ先に見えて、その「大丈夫なのか?」という奇妙さにも驚く。彼が上飯田出身というわけでもない。

ただこうしてつらつらと書いていくほど、要するに想像していたよりも良いのか悪いのか何ともよくわからない映画で、ただ映画を見て良いのか悪いのかよくわからないのは自分に関してはいつものことではある。つまり本作に限ったわけではなく、いま「見るべき」映画が見たいと思って見たら、実は良いんだか悪いんだかわからない、まあ、素直に楽しんだとは言い難いし、それを人に素晴らしいと薦めることには躊躇するものだったなんて、よく映画祭とかならあることか、それとも自分が天の邪鬼で、本作を見たからには単純に良いと言う気分になれないだけでもある。ただ「話」というものから解放というほど野心的でもないが、ダラッと落ちていく感覚がこの上飯田のバナナの木(15年の歴史という微妙さ)を中心にしたような空間や、そこかしこの寂れた微妙に行きたいと思えない感じとマッチしていて、そこが面白い。