テッド・フェント『Short Stay』。ロメールの人物から一切の冴えを剥奪したような人物たちとその展開。最後の方で、男が立ち去る、その背中を見送る二人の女、時間的な飛躍がないショットを挟んで、女たちと男の再会、公園で寝そべる3人という流れとリズムが異様にいい。https://t.co/BiAFfzEO4l pic.twitter.com/nQB7MXVYD7
— jf×3 (@jfjrjmsjlg) 2022年6月28日
夜、眠れなくなってしまう。テッド・フェントの映画をついにネットで見る。またしてもアダルトサイトだから注意が必要だが、はたしてどういうことなのか? ともかく『Short Stay』(2015)。ほぼ60分の、長すぎるでも短すぎるでもないショート・ステイ。赤坂太輔さんや新田孝行さんの評から名前を聞くたびに気になっていたが、結局はネットで見た。「マンブルコアのストローブ=ユイレ」と言われるらしいが、画面外の音や芝居の域に入らない動き(コーヒーを啜る音)など偶然性が画を切るタイミングになって、その名の通りカットのキレがあって、それはユイレを介してアメリカ映画の最良の面を継いでいるということかもしれないが断言するほど詳しくはないし、ただの印象に過ぎない。自分の狭い視野では「アメリカのホン・サンス」というありきたりなフレーズが思い浮かんだ。もちろん、ホン・サンスとテッド・フェントは全くの別物で、小津は二人いらない、という話のようにホン・サンスもテッド・フェントも二人はいらない、結局のところ小津も成瀬もホン・サンスもテッド・フェントも当然のように唯一無二かもしれないが、ただ「ホン・サンス」という名前を出して、なにをトンチンカンなことを言ってるんだとどうせ馬鹿にされてでも名前を出す理由、つまりそれは「ちょうどよさ」という印象かもしれない。グループ魂の眼鏡の人に似た主役が世のフレームに対して過剰に卑屈でも堂々とでもなく収まっている時点で「ちょうどいい」。これ以上ショットが長くも短くもないという感覚を、さらに別の帽子の眼鏡の男がグループ魂の隣で何故かカメラに向かって一方的に何かを喋り続け(そして数か月後という字幕が入る)、何を言っているか英語のリスニング能力が低いからわからないが、たぶんたいしたことは言ってないんだろうが、そのショットさえも長すぎるとはならない(『あなたの顔の前に』のギターを奏でるまでの時間だって弛緩しているようで緊張しているようで、酒の力がほどほどにちょうどよく長すぎるようにはさせない)。でもそれらは「ちょうどいい」けれど、そのちょうどよさは過激なことかもしれない。ホン・サンスのズームだって、ズーム自体は変と思われても、その前後は「ちょうどいい」かもしれない。このすべてのショットに長すぎず、短すぎずという感覚は、新田孝行さん経由ならディアゴナルの作家ジャン=クロード・ビエットの映画を思い出すが、でも自分の考えではない。このことは青山真治監督の『夏の娘たち』についてのツイートから盗んだだけから自分の考えではない。だから本当はまだまだ長すぎる、短すぎる可能性はある。別に寝顔のアップなんかまだまだちょうどよくはないかもしれない。「ちょうどよさ」とは切り詰めてタイトに引き締まることを指すのか、それも自分の考え、自分の手を動かして身に着けた考えではないからわからない。『夏の娘たち』の川辺での台詞の聞こえにくさも、ある種の「ちょうどよさ」、これ以上聞こえるのも不自然であり、これ以上聞こえないのも不自然だという、映画の自然さ、暗黙の条件に対する一種の稚拙とも「変だ」とも罵られる可能性のあることが実に本当は「ちょうどいい」かもしれない。話をテッド・フェントに戻す。誰を、どのカップルを画面の中心に持っていくか、明確なカメラの動きがだらしなくない。的確なリズムのカットバックでも見ているように、人物の動きを追うパンをつなげたショットのリズムが気持ちいい、つまりは「リズム」がいいという言葉で済ませられることなのか? そもそも「ちょうどいい」という言葉が相応しいのか? それなら「映画はこんなものでいい」という意味での「こんなもの」というか、どれだけタイトに引き締まっても「こんなもの」がないということだけはありえない。それまでおそらくほぼ三脚に置かれていたと思うカメラがラストになって車内に揺られるというのに『リバティ・パランスを撃った男』を連想したなんて書かない方がいいと、そういうことはいい加減書かない方がいいんだと思いながら、でもこの揺れが「こんなもの」に相応しい感じがする。電車の中でカメラが揺れないわけがないのだ。