8/18 『吉野葛』@アテネフランセ文化センター

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吉野葛』@アテネフランセ文化センター
最初の「吉野」の駅看板を映したカットの短さを忘れていた。誰かの足元を捉えたかのような、しかし無人の雨降る駅のショットに続き(次作『韓流刑事』における中野重治「雨の降る品川駅」のことが予告されている気がする)、そしてタイトルへ繋ぐまでのリズムのカッコよさ。ところで『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』の最初の山の斜面を映したカットは思った以上に長かった(そこからのポン寄りのリズム)。漠然とした印象に引きずられて混同してしまう。『吉野葛』も『天竜区水窪町 祇園の日、大沢釜下ノ滝』も列車の到着から始まるが、前者は水鳥を、後者は釣り人を撮る。『吉野葛』に紙をすく女について書かれているが、その作業を中心に撮ったショットの映画ではない。
そうやって『吉野葛』と『天竜区』の違いを指摘したところで、『吉野葛』の感想を書いたことになるわけでもない。
音読するのに難儀する文章。安倍も菅もまともに原稿を読めないが、その原因は個人の滑舌の悪さではなく、彼らを取り巻く体質と結びつくから問題である。彼らがどれほど日本らしさや美しさにこだわっているかは知らないが、彼らは自分でスピーチをすることができないらしい。不意に本音を漏らして皆様を不快にさせたならとお詫びするしかできない。政治家の醜態と本作を並べるのは侮辱に等しいのかもしれないが、おそらく彼らにこの谷崎潤一郎吉野葛』を読むことはできない、というか相当な根気、つまり心変わりを要するに違いないと思いたい。
とはいえ世の中にはキャスター出身の冷血な都知事のように心にもないことをスラスラ言える人間もいるだろうから、決して滑舌よく読めるかどうかという話ではない。
吉野葛』は夕暮れの水辺と、暗い川の流れの音を捉えた妖しげなショットに、朗読する女性自身のショットが切り返され、画面外から立ち上る煙草の煙にハッとさせられる。ヘッドフォンのないレコーディング風景。どこかテクスト自身の「時代劇を書くための取材」という設定が、『吉野葛』という映画では、映画そのものの生成過程へ変化したように見える。近作では葛生賢・堀禎一、両者の名前が「感謝」にクレジットされている『王国』こそ、そのような映画だろうが(ここでは嵐の前後の静けさとも何ともつかない無人の水辺が映される)それはともかく、彼女自身の変化のために繰り返されることを許されていないような『吉野葛』の朗読する女性の姿は、煙草の煙と共に危うい。読みにくさと対峙する姿は、滑稽でも心無いものでもない(チャーミングではある)。アスリート的に感動を誘うというわけでもない。ただ不意打ちのような地唱の文句と共に、母子のことを読む彼女のわずかに役を演じかけたような声と「とんからり、とんからり」というリズムが、まるで音楽映画になりそうで、あえて一歩手前に距離を置いて踏みとどまったような奇妙な魅力が発揮される(なんだかんだいってストローブ=ユイレというより大島渚的というか、キャスティングの勝利かもしれない)。聞き取りにくい声が意味と音の境界にいるような感覚は、堀禎一の『天竜区』シリーズと、そこから続く『夏の娘たち』へも通じる。もはやとっくに(お笑い芸人と手を組む腐敗した連中が蔓延る現状では特に)美しく使いこなす能力なんか失っている人ばかりかもしれない言語の存在が『吉野葛』にも浮かび上がる。今日のプログラムの一本、レフヴィアシュヴィリの『最後の人々』はなぜだか「new century new cinema」(赤坂太輔企画)で見たときから無字幕、もはや何を言っているかわからない映画という印象がとにかく強く、そこでも言語は音のリズムによってかき消されることも余儀なくされる。まだ「固有の民族」として日本人というものが存在しているかのような(少なくともそこに誇りがあるかのような)幻想に囚われた連中にとって、「楠公像」のショットに挟まれて『ドイツ・イデオロギー』の一節が(それを読める人間は決して限られた存在ではないと告げるように)映画作家自身によって朗読される皇居という舞台のラストショットは「不愉快」もしくはナンセンスなのだろうが、「結局は革命によってしか粉砕できない権力」としての場所がそこにある。悪質な年貢の取り立てでもしていた時代劇の悪役とほぼ変わりない、税金で私腹を肥やし、隙あらば中抜きする発想しかない、補償もまともにできない、ガーゼマスクを配るという信じられないバカみたいなこと(ところで特定の個人への攻撃になってしまうが今日のアテネフランセにもシネマヴェーラにもガーゼマスクしている観客は一体何を考えているのか)を中途半端に実行する腐敗しきった連中が悪徳企業と組んで、オリンピックのために病床も被災地も犠牲に捧げ見捨てる国に近代化もクソもない。
そんなことをワクチンもまともに打ててないのに映画を見に行っている不用心な僕が言っても何の説得力もないとはわかっているが、むしろ誰が薦めるというより、こんな状況でも映画館へ来るしかない人々にとって本当にふさわしい映画に違いない。少なくとも(並べられたくないだろうが)出鱈目な『キネマの神様』よりは、ちゃんと打てば返ってくるはずだ。『キネマの神様』には撮影時の自分の若いころの姿が女優の瞳に反射しているのだという物語から始まり、終盤には『東京物語』を(もはやわざと陳腐に)模倣した画面から話しかけられて、あの世へ旅立つ。山田洋次が小津からウディ・アレンへという発想(しかもそれは映画そのものよりも、彼らの映画に対する世間と通ずる凡庸なイメージの域を出ない)なら、『天竜区水窪町 祇園の日、大沢釜下ノ滝』の芋ほりについて語りかける別所さんや、微笑みかけてくれる犬のジョンには、小津だけでなく、より幽霊たちの記憶が濃厚な鈴木清順の存在も、届かぬ恋文を送るジャン=クロード・ルソーの存在も踏まえて、彼らは本当にこちらに向けて堀禎一がいなくても何かを上映されるたびに送ろうとしている。また『吉野葛』の交差点のミラーには、撮影時の作家たち自身が反射されているらしいが、その謎も編集によってアクシデントではなく、走り去る青いトラックがミラーへ映り込んで、奇妙な機械の音とともに、こちらに向けて映画が覗き返すように残っている。

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