8/17、18②

鈴木仁篤、ロサーナ・トレス『丘陵地帯』を見直す。三脚に置いていないショットがほとんどなのを忘れていたが、それゆえに手軽さよりもカメラの重さ、わずかな揺れ、画をブレさせないという慎ましさ(1ショットごとの大事さ)が増している映画。この感じに木村卓司『さらばズコック』を思い出していいのかわからないが、当然違う。小田香とも違う。顔ははっきり見えなくても、出てくる人物の作業が撮られている。動物同士の諍いや、群れの行動が撮られている。投げる、掬う、読む、歌うという行動の純粋さがある。同時上映の傑作、堀禎一天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』とも違って、あれほどの技で構築されてもいない。ただ最小限に二つ三つのカットが繋げられ、ある種スケッチ的に思えるくらいなのは、やはり三脚を失ったことにより選ばれたことなんだろうか。それでも(初期衝動と呼ぶのは違うが)二度とは作れなさそうな軽やかさといえばいいのか、それが何のためにどのような理屈でもって作られたのか謎めいたところに、見ること聞くことへの欲望を感じられる。心洗われる映画。

梅沢薫✕大和屋竺『濡れ牡丹 五悪人暴行篇』@国立映画アーカイブ
ようやくまともに見れた。冒頭から『処女ゲバゲバ』『魔術師と呼ばれた男』などに通じる「上」にいるらしい何者か(その由来は明かされない)へ歌う娘マリちゃんの、ロングの俯瞰。照準の主観(褪色なんだろうがオレンジの奇妙な色に復元されている)と闇夜に動き回る男の繰り返しが、集中して見るほど目を焼かれ、実際に暗闇の中に目をこらして隠れているような体験になる。繰り返される円形のモチーフ(緑がかった青白い炎の輪が燃え上がる)とともに、視野を狭めさせる。「上にいるぞ!」の呼び声も虚しく殺されていく。過剰なまでに怯えのリアクションを撮ることで、大和屋は中川信夫とともに低予算映画の世界へ豊かさ(魔)を呼びこむ。
『濡れ牡丹』はタイトルの牡丹からして誰なのか(あのオシの日本刀使いの男女なのか?)意味不明で、大和屋自身の演じる殺し屋クロがいつ死んだのかもはっきりしない。どちらともとれる曖昧さが、暗く見えにくい画面の切り返しで積み上がる。互いの真意や関係性は何とも読み取れたのか奇妙で、たとえば五人組がそれぞれどのような計算でやり合っていたのか、三隅のような構図で物語る豊かさとも異なるから不明瞭である。それでいてサディスティックかつクセのある面々であることははっきりしている。対立するヤクザとクロの陰謀自体、明らかにされてもスッキリしない。口の聞けない二人の男が弦のないギターを交換すると、誰も歌えないし、誰も何も実は聞こえていないかもしれないギターの音が奏でられる。ギターの音は生死のはっきりしないクロ≒大和屋とともに、敵役に死を告げ、娘に彼岸の存在を知らせる(それは上から聞こえる音ではない)。まるで去勢された歌謡曲映画であり、『殺しのブルース』のような大和屋の歌声が聞こえてくることもなく、死に際の裸踊りに、猫踏んじゃった、男たちの歌声は美しくなんか流れない。その奇形性が何よりも映画を豊かに、今見ても色褪せない闇と余白を残している。