8/23『ドライブ・マイ・カー』

『ドライブ・マイ・カー』を見る。
大江崇允監督作との繋がりで言えば、主題的にはいろいろ考えてしまうが、見た日のうちはまとまらず、一番書きやすい点だと『美しい術』の冒頭を飾る「目を閉じ、耳を閉じる」がよぎる黒画面と無音だろうか(でもあれはキアロスタミか)。たしかに都合のいい役割を担わされているかもしれない運転手の三浦透子に『適切な距離』の日記上に登場する(架空の、死んだはずの、生きていてほしかったという母の願いが残酷に込められた)息子の姿がよぎる。そして本作では母の方が「殺されて」いるし、終盤にはそこに母の別人格でありながら、彼女にとっては想像上の友人に近い存在まで語られるが、こうした脚本家・作家の主題に近いものを、画面に再現せず役者の語りに入れる(あえて「ホン読み」段階に留める)のは濱口竜介らしいかもしれない。
銃を手にした岡田将生の髭面は案外似合う。濱口竜介監督の映画に銃を手にした男が出てくるのは初めてか? いや「心の銃口を向ける」みたいな話や、『The Depth』に出てきた気もするが思い出せない。逃亡犯が劇場へ逃げ込んで芝居する話はいろいろあった気がするが、残念ながらネットの検索に依存しすぎたせいか思い出せない。
初っ端から『ウイークエンド』のミレイユ・ダルクによる『眼球譚』の朗読が引用され、壊れかけた夫妻のロードムービーの幕開けに相応しい……と思っていたら、別にこれはロードムービーではない。そもそも妻が死ぬ。しかし題材的にはパートナー殺しを予告してはいるし、この官能と暴力、それが(おそらくあえて)あらゆるものとのせめぎ合いとの内に目の前に噴出し損ねるのは、濱口竜介の主題らしくなっている。もはや、ある種の「ヘタウマ」的な、稽古終わりに役者たちの集まりが分かれて、一つの画面内に複数のやり取りが描かれる『ゲームの規則』など連想しそうな場面が(そして問題の岡田将生が画面外へ消えて何をやっていたのかも)どことなくうまくいっていないのを、『寝ても覚めても』のクラブでの喧嘩のようにあえて残している気もするが、わからない。
多言語の演劇に、これまた旅の映画の『永遠の語らい』のユートピア的な光景が念頭にあるのだろうと思っても(あれはオリヴェイラが見た夢ということだったか?)、もちろんそれが実現されるわけではない。最後まで見ると、やはりこれは着地点の何とも言いようがないところも含めて、旅の映画であることは間違いないのだが。

なんとなく『クリーンセンター訪問記』と言いたくなっても、そんな名前を自分が出したところで、すぐに話を広げられる気がしないし、それなら書いたところで、お前は「物知り博士」とでも呼ばれてみたいのか(んなわけない)、という虚しい後悔が待っている。『寝ても覚めても』の『SELF AND OTHERS』的な引用とまでも言わないが、たしかにいくつかの芝居に対し切り返しを撮らない・撮る、どちらかの選択がされていることに、俳優に対するドキュメンタリー的な姿勢を(引用や学習だけでなく)貫こうとしていると思う。