『にわのすなば』(監督:黒川幸則)

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試写にお招きいただき黒川幸則監督『にわのすなば』を見る。上映館が同じポレポレ東中野という『日本原 牛と人の大地』と共に監督・プロデュースが夫妻の映画でもある。無責任なハッタリをかますなら、日本映画史上最も穏やかかつ朗らかな劇映画が誕生した、かもしれない。いや、舞台裏はバチバチなのかもしれないが。「椅子に沈み込む」という形容が相応しいガクガクな音がする冒頭(すでにポール・トーマス・アンダーソンもしくはジェリー・ルイスらに通じるかもしれませんよ!)、客層は被るかもしれない『ふゆうするさかいめ』(住本尚子)主演のカワシママリノが再就職目指して(ローベルト・ヴァルザー的に?)面接するところから始まり、カワシママリノは役柄では他称映画作家もしくはリサーチャー未満として、また役者としてはセミプロもしくはアマチュアに限りなく近い存在として、しかし周囲の出来事に対し劇としてもドキュメントとしても素晴らしく気の抜けた反応をして一々飽きさせない。ラテンアメリカ映画研究者の新谷和輝さんが最終的に凄まじいポテンシャルを発揮するのだが、まだまだ序盤のカワシママリノ・新谷和輝の散歩は映画が産まれたての子供を見守ろうとしているかのような優しさを感じる。その優しさを経て、新谷氏の一時退場後にカワシマ氏には西山真来という新たな相方が現れ、ここでの西山真来はアップよりはロングや後ろ姿が画になる、活動的な姿が印象深い(彼女が自転車に乗ってやってきた時点で、やはり堀禎一へのオマージュを感じないわけにいかないから涙が出る)。そして裏方的なはずの人々と、風祭ゆきと、カワシママリノの新たな先輩格のリサーチャー村上由規乃が現れ、失礼ながら監督・カメラマンのプロフェッショナルな場での経験を知る(さらに編集の鵜飼邦彦のキャリアを振り返るとクセの強そうな映画が並ぶ)。黒川幸則監督は年代的にも作品的にもまさに過度期の存在であって、それより以前・以後の作家にはできない立ち位置かもしれない。とにかく、キャリアの異なる人々の揃う場から本格的に女達が画面を占め、彼女たちは総じて、印象的に挟み込まれる水面や草木や、特に人物のひとりといっていいほど吹き込む風と同じくらいエロティックで先が読めない。スケボーをする佐伯美波も、そこに支えられる危なっかしいカワシママリノも、それをさらに反対側から支える村上由規乃も、三人の並んで坂をくだることになるカットが子供を見守るようで物凄く色っぽくも見えて、そしてカワシママリノと村上由規乃の追いかけっこは緩やかに始まって、速度をつけて振り回す。これらはセリーヌ・シアマの映画が現時点において絶対にできない真の遊びの時間だ。そして新谷和輝は画面に不在であって物語的には消失している間に、かつてあった今は失われてしまった何かであった気がしてくる。映画研究者・遠山純生氏が(氏の声が自然と素晴らしく調和する)彼の過去を語り、その過去に外せない女性を演じた村上由規乃が彼への思いを声に出し顔に出し、ついには二人の切り返しから、一つの画面に収まるまで、正直なぜだか彼のことが羨ましくなってきて、最終的にはギョーム・ブラックが挑戦を続けるヴァカンス映画に相応しい切なさを獲得する。二人の過去に刻んだものを、再度合流した新谷さんが体現することを果敢に達成しようとする。なにかがもう取り返しがつかない場面を二人が体現しようとするほど涙なしに見れない。ユルいようで情熱的なのだ。佐伯美波とともに『VILLAGE ON THE VILLAGE』の素晴らしいヒロインの一人だった柴田千紘も中川信夫の亡霊たち同様に引っ掻き回すようなインを繰り返し、そして工場では中村瞳太を画面の中心に、たびたび言及されてはちらつく猫を実際に撮った時以上に猫の集会に遭遇したような雑然とした魅力的な空間を作り出す。何より酔ったカワシママリノと村上由規乃が二人で夜道を歩き、そこへ歌うカワシマさんへ寄っていくカットは渡邉寿岳さんのこれまでの撮影で最も美しくさりげない画面の一つかもしれない(ただそれは『夏の娘たち』もしくはまだ見ぬ天竜区にあるのかもしれないが)。ともかくリサーチャー・カワシママリノを誘う映画は、ふだんはっきり道先案内人にはならない黒川幸則監督がついに我々(誰?)の行くべき道の一つを指し示した、かもしれないし、しかしそれはあまり付いていこうとか真似しようとか思ってできるものでもない危うい道かもしれない。ともかく見せていただいてありがとうございます。

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