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アテネフランセにて伊勢真一『えんとこ』を見る。毎年(かどうかは知りませんが)公民館で上映やってる人という印象で、震災の映画(『傍』)は見たが、どうにもみんな震災の映画を撮っている時だったからか、どうしても興味を持てないままだったが、まあ、僕は浅はかだったんだろう。そこで手のひらを返すように「いい」というのも、やっぱり自分には自分の眼で見る力のない、人のいうことばかり聞いてるダサい馬鹿と思われても仕方ないだろうが。
カーテンとベッドと書斎。女も男も若く魅力的な介助士(遠藤滋氏は自ら介助士を求めて電話をかけ続けたこともあったという)。訪れる人々が皆いい。華やかな映画だ。遠藤滋氏は養護学校での講演にて横になりながら、自分みたいな人間でも生きていけるのは面白い、と笑う。彼の笑顔のアップに、入所者の笑い声も画面外から返ってくる。その重なり合う笑いは忘れがたい。乾いているわけでも心温まるわけでもなく、何とも言葉にしづらいが、笑っている。介助士と書物(横田弘「障害者殺しの思想」が目に入る)と訪問客と笑いに囲まれて横になる一人の男の見た夢が映画になる。それはどこか谷崎潤一郎的な世界かもしれない(と確信をもてるほど読んでいるわけがなく、単に特集からの連想に過ぎないが)。
かつての彼の夢はオーケストラ指揮者だった。いまの彼は西伊豆の海水浴場にて、若い介助士に支えられながら水の中で立って、足を前に進めながら笑っている(映画は「不屈の民」のリズムを繰り返す)。彼は介助士たちとともに、少しでも住みやすい街へ変えるための働きかけを繰り返している。遠藤滋氏は先生として、皆が会って話を聞きたい人間として、自室に横たわっている。先生が障害をもっていたおかげで、一つの場所にいてくれて、その声は聞き取りにくいがゆえに、一つ一つの言葉を聞き逃すまいという姿勢に私をしてくれる、と教え子≒介助士の一人の振り返る声がする。その言葉は決して想像力を欠いたものではない。一つ一つを聞き逃すまい、見逃すまいという姿勢にしてくれるのは映画も同じだ。笑顔と幸福と夢を形にすること(それは時に闘いであり、迷惑をかけることであるが、それを逃れて一人で生きていける人はどこにもいない)についての映画。最後の誰もいない彼の部屋、カーテンとシーツに光の射す美しい空間。彼がどこへ行っているのか、映画を見ている誰も知ることはできない。その自由に感動する。

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