1/4 Ad Mornings『青空恋をのせて』『泣き濡れた春の女よ』『にわのすなば』

午前中は前日の酒がなんとなく抜けてないのか寝不足なのか、最近は本当に使い物にならなくなり、映画を見ようとしても途中で止めて寝てしまう。

なんとか起きて本郷へ向かいAd Morningsの展示を見に行く。たいした感想も言えないが清原惟監督の参加した『ユートピアのテーブル』に続き双六を見ることになる。しかしこっちの双六はサイコロを紙で切り抜いて組み立てた微妙にデカい作り物にしていて、そこには笑った。パフォーマンスは時間合わず見送る。

admornings.com

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国立映画アーカイブへ移動しての新年一発目はハワード・ヒューズ製作トム・バッキンガム監督『青空恋をのせて』(32年)なんとこの二年後に監督は39歳の若さで亡くなっていると知る。しかしハワード・ヒューズのおかげか何なのか、これ以上ないほどのゴージャスさだが、それも含めて正気とは思えない凄いカットが『間蝶X27』(31年)の比にならない祝祭でもって繰り広げられる。これを見ないで死ぬのはあまりに勿体無いレベル。
今回の上映は公開当時検閲により削除された箇所になると画面隅に鋏マークが出てDVD特典ぽいのだけ残念だが、やはりこれは今見れるどの映画よりも凄いに違いない、というかこれは本当に見れてよかったと皆を唖然とさせるに違いない。
まず初っ端からヒロインの胸元も露わな豊満な肉体に目がいく以前から、各国の(アメリカからギリシャまで)お歴々が集う場に、舞台か何かのように背もたれが画面手前を並んでるなか、彼女は緊張するでもなく、あくまで舞台女優らしく佇んでいて、その印象は最終的に間違っていないのだ。
ルノワール『黄金の馬車』、オフュルス『ハラキリ』、ルビッチ『生きるべきか死ぬべきか』を予想させつつ『ゲームの規則』より早いかもしれないが、しかしその監督たちは既にしていたかもわからないが、ともかく並べて一切劣ることはない(撮影のルシアン・アンドリオは後にルノワールと『南部の人』『小間使いの日記』で組んでいる)。女優は政情を動かしかねないというテーマ。
そして『グリーンナイト』もシャッポを脱ぐ、ある種パロディアスユニティの世界にさえ近い凄まじい横移動、前進に後退、窓枠を抜けて奥行きから手前に至るまで豪華に彩られている。その窓という題材がカーテンや扉により閉じられるたびに秘事の主題が浮かび上がる。なんという猥雑さと気品。たとえば劇中、おそらくスペイン語らしき言葉をまくしたてる女の声が聞こえ、ついにインするまでの技巧はもはや絶滅を余儀なくされているかもしれない。
一方で「女たらし」と呼ばれる軍人と、友人兼従者、そして整備士(もちろんハワード・ヒューズ製作なので飛行シーンも長い)と言うべき男の『ゲームの規則』のジャン・ルノワールを思わせる佇まい。「女たらし」が情事の現場を押さえられて逃げ出す際の銃撃からのカットバックがカーテンだけになり、それを開けると彼は着地していて逃げ出す(ここまでの力技は近年のトム・クルーズからオフュルスの窓から転落する場面に匹敵しているかもしれない)。従者が誰としているか自分だけの賭事を繰り返すユーモラスかつ本質に触れているような行動。「女たらし」が女優に引っかかる場面の、珍しくスクリーンプロセス的なことを窓枠に仕掛けたかと思いきや、舞台を回転させる(それともカメラが回ったのか?)どうやったら撮れるのか信じがたいショットに感動しすぎて、なんだか後半ボンヤリしてしまう。いや「女たらし」を前に女優が今更のようにジャンヌ・ダルクを改めて演じ出す滑稽さ。彼女はジャンヌ・ダルクでありながら、多くの男の士気をあげるどころか戦線離脱、敵前逃亡させているのだ。そんな彼女の甲冑を缶切りで開けさせようと駆け回る女たらしのみっともなさ。それに諦めて缶切り片手に寝る場面の危なっかしさ。その一人の賭けに勝つために缶切りが甲冑を開けられないと確かめる従者のおかしさ。しかし甲冑は外され、彼の賭けはもはやなし崩し的に意味をなさなくなる、この貞操をめぐるあまりに挑発的な結末を年明け早々見る幸福を逃すわけにはいかない。

あまりに良かったのでポレポレ東中野で『理大囲城』みたら脳内が渋滞すると思い、早稲田松竹へ移動して清水宏『泣き濡れた春の女よ』再見のつもりが、たぶん初見だった……。なんとも終盤の主要人物ふたりを影にして、その後は足だけ映すのだから、やはり凄い。

夜に『にわのすなば』劇場では二度目。黒川幸則監督が『空がこんな青いわけない』リスペクトがようやくストンとくるくらいの青空、だけでなく空模様と波模様に改めて、というかようやく劇場で落ち着いて見れてよかった。
上映後の監督×草野なつか×西山真来トークでは西山真来さんから『夏の娘たち』の時に渡邉寿岳さんが堀禎一監督から「呼吸を読むようにまばたきを見ながら撮るんだ」と言われたような話をしていて(僕の記憶が正確かは不明です)、意味がわかるかはさておき『夏の娘たち』という渡邉寿岳カメラで初めて(というか今となってはなかなか見れない)病院と川でのバチーンと視線が結びつく瞬間につながったのかもしれない(あの川の最終的に結びつく二人の目が合うようなカットバックを見ると、伊藤弘了が小津のカットバックは針を通してもブレなかった云々のツイートでバズった話もどうでもよくなって、やはり見ていて「いま目が合った」という地点をあの映画が追い求めたほうが遥かに今や価値のある瞬間で、針を通してみたら云々は最終的には映画と何の関係もないのだ)。
あとカワシマさんの歌はサントラじゃ聞けないので(このあたり『ふゆうするさかいめ』も一緒なんですが)カワシマさんの声で聞きたければ何度でも『にわのすなば』を見るしかないのです。