アイダ・ルピノ『強く、速く、美しい』まず母が主役?と知らず冒頭のナレーションから意外というか、爽快さみたいなものから程遠いラストを予感する。このタイミングだとどうしても『アネット』のことを連想する。アダム・ドライバー的な男は娘を連れて行ってしまう彼氏まで特に裁かれるわけでもなく、単純に父母の立場を入れ替えただけでは済まされない違いはあるが。ラストの男二人に挟まれて目を左右に動かす娘は深淵に落ちかけているのか?  壁打ちの音が母を苛立たせ、娘が「自分は壁を相手にできていたのだから人間には勝てる」といった話をする。一方で映画は観客には見える壁というか境目を挟んで人々を向き合わせる。ひまわりの花が視界の邪魔になることに変わりない。『ヒッチハイカー』といい、二人〜三人しかいない空間で事が進む危うさと、そんな車を乗り継ぎしていくような、ハンドルを自分が握っているのか、握らされているのかわからない不安は、映画が終わっても娘のその後に引き継がれるだろう。B級へ捧げられる最大の賛辞といえば「安い、早い、うまい」であり、たしかアレックス・コックスが言うには、インディペンデント映画においては実現しない三点であり、どれか一点を諦めなければいけないらしい。「アマチュアの規定には違反していない」と男に唆されて受け取る小切手を見て、母は「美しい」と呼ぶ。美しさは母娘の未来を指すのか? しかし小切手と紙幣ほど呪いの紙にしか見えないものはない。その頃、娘は鏡を前に声にはしないが「美しい」に陥りかける。物事を言葉や文章にする時「美しい」はなるべく避けるよう慎重になる、という話を複数の人から聞いた覚えがある。美こそ深淵なのか? そんなわかりやすい連想には慎重になるべきか。最も美しく見える病床の父をめぐる娘との出来事はラジオ中継まで感動はするが、それでも父の印象は美しさよりも「弱さ」だった。

ラドゥ・ジューデ『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版』を見る。自己検閲≒金。しかし昨日思ったよりも悪酔いし、相変わらず人が見て不愉快になる行動をしてしまったせいか、外が暑かったからか、寝不足が祟って嫌な眠気に襲われ何度か長い瞬きをしてしまう。
しかも昨晩酔って(SNSで)悪口を書いた若手監督の状況と無縁でもない気がするから後味悪い。また、ある意味では同じ映画館で上映された『牛久』のことがよぎらなくもない。ここでの醜悪なアレコレは一応は許可なしにありえないことだが、第一部の光景は本当にゲリラなのかどうか。
肝心のホンバンはボカシどころか、ほぼ完全に黄色い画面に覆われて何も見えない。結果マスクを脱いだ女優の顔(つまりフェラチオ場面)もほぼ見えず、第三部の最もハラスメントにあたる集会での醜悪な上映も、ホンバンを映すタブレットが黄色の幕に隠され、マスクした女優を隣に、PTAの小太りなおじさんが興奮している姿がより滑稽にも、更にいやらしい羞恥プレイの想像を掻き立てることにもなるが、AKBとAVの国ニッポンの状況を反映しているのだから仕方ない。とはいえ、これが(小太り役者を使う点も通じる)アルベール・セラの『リベルテ』なら〈自己検閲〉など不可能だろうから、シレッとマスクで覆い尽くすラドゥ・ジューデは既に事態を見越していたかもしれない(彼が独裁政権下の検閲を知らないわけがないしチャウシェスクの名も勿論出てくるが、イスラム圏への不穏当な言及も〈自己検閲〉字幕にはある。また『愛のコリーダ』の日本での扱いも知っているんじゃないか)。第二部のフッテージに対する日本語字幕オンリーのコメントは監督からのプレゼントだろうか。
長回しは控えめだが、第一部の女優がただ歩くパンデミック下の街の夕陽の射す画を繋いでいく、自動車トラブルや罵声も相まって『ウイークエンド』のことがよぎって、これだけでも見れてよかった。単にコロナのタイミングだけでなく、微妙な光の変化が見れるかもしれない時間を選んでいる。第三部になって、日が暮れてライトが灯されての集会の半端な明るさや、二番目のエンディングに舞い落ちる木の葉も印象に残る。ところで第三部にて散々言及されるも声だけで姿を見せない子供達だが(二番目のエンディングに何者かの「娘」が出席していたとわかるが)、過激な性教育ともいえる『パート2』はいつか日本でもボカシなしで見れるのか。
パンフレットも何となく買いそびれた。