ミュジドラ『太陽と影』。こちらも感動。ミュジドラは北野武より早かった!と言いたくなるラスト。ミュジドラにミュジドラは敵わない。武が参照してるのはジェリー・ルイス『底抜け便利屋小僧』だろうが。実際の闘牛士が出演しているんだなあと後で読んで知るが、たしかに本人が牛に刺していて、若干思ったより迫力なく見えるが驚く。そういえばロデオの映画は『ラスティメン』とかペキンパーとかベティカーとかフライシャーとか『ダラス・バイヤーズクラブ』とか見ているが、闘牛は見てないかもしれない。大半の映画の役者と牛の競演はほとんどが吹き替えだろうが、ミュジドラはできる人を呼んでくる。しかし、あの不吉な絵はなんだったのか。愛に敗れた女の顔をしたミュジドラがまた力強いショットになっている。そしてまたしても男女二人(あれは親子なのか?)がミュジドラについていく。

録画したフライシャー『フォート・ブロックの決斗』を見る。意外なくらい『十番街の殺人』や『マンディンゴ』や『センチュリアン』と変わりない感じというか、ようやくフライシャーらしさを自分も掴めた気になれたところで、でもこれは何なのか。優雅な陰気さというか、画面の陰陽とか、赤い酒場から一転して泥まみれの喧嘩とか、雪の狼の毛皮狩りとか、なぜか出世街道というものに乗れた男が、男からは恨みを買ったり、かつての仲間の心が離れたり、二人の女の間で中途半端な位置にいたり(『東海道四谷怪談』になりかねないようでズレている)、はたしてこの「エグい」と言いたくなる映画は「心理劇」なのか(架空の人物の精神とは……そりゃ役者の芝居に負うものは多いとわかっていつつ、そのために演出はどうあるものなのか、とか監督業を知らない人間が勝手に想像できるのか)。インディアンの扱いは終始よくないのに、終盤になって黒人の使用人がいきなり意思をもって話し出す。いったい自分は何を見させられたんだという気になる話だが、その演出が研究書によりいずれ明かされるんだろうか。先日の黒沢清に出た乃木坂46だって、自分たちに主観があるのかもよくわからないうちに上昇させられたり下降させられたり、たいした努力もしているか、うまくいってる?かわからない存在だろう。苦労しているか、才能あるのか、映像は人物のそんなドラマや成長なんか宙吊りにするということか。
続けて見たウォルシュ『南部の叛逆者』がこれまた気分を容易には晴れさせない厄介な調子の狂う映画だった。それでも映画の雨は感動的だった。果たしてラストの船が向かう先ほど「正しさ」というものが不明の終わりもないと見えるが、それは僕が単に話の中心を見失っているのかもしれない。シドニー・ポワチエはいいのかも容易にわからない。これまた架空の人物の精神とは何なのか、不安になる。もちろん誰だって自分が「奴隷」だなんて思いたくないし、そこに人種の差異は本来ない。みな等しく「奴隷」になりたくない。一方で「やさしさ」によって黒人も女も、白人の、男の「奴隷」状態を選ばされかねない屈辱。そのやさしさが屈辱を超える域まで行ったという話なのか。過去をフラッシュバックさせないで進む人々の映画か。フライシャーもウォルシュもまだまだよくわからない。

映画館でやっている新作に惹かれず、自宅にてベッケル『怪盗ルパン』。10年以上前に無字幕で見たきりだったが、最初の泥棒後にレコードかけながら開け放たれた扉越しにパンチングボールをぶん殴るところと、水槽が下降していく以外まったく覚えてなかった上に、話も全く記憶できていなかった。あの父のものなのか、手錠と肖像が妙な彼女が前半しか出てこないとか。ただ見始めたら、髭面のロベール・ラムルーのガラガラした感じの声が苦手だったのを思い出す。野蛮そう!というか。ただ今回はさすがにそれを特徴として受け入れた。『ホーリーモーターズ』のこともギトリ『とらんぷ譚ルノワール『コルドリエ博士』やジェリー・ルイス『男性no.1』ら変装していく男の話と共に思い出す。最後のロマンだけは残していく、というのが何とも。単にショットをつなげて長い時間持続させるだけじゃなく、前のショットと異なるもの(どんでん返し?で手を上げる高さが異なるとか別室へ跨いだりとか、それまでいなかったと思っていた人物がいたりとか)が続いていく。あえて繋ぎにくくしているような。水槽の仕掛けは最初すべてオフにされているのも人工的な変な音やリアクション、虎しか見せないとか、ブレッソンとはまた別の遊びを感じる。57年ならシュトロハイム(71歳)の亡くなった頃の映画ということか。女性の心を盗んでいく(別物だか、やはり宮崎駿よりはロウリー×レッドフォードのほうを連想したい)手つきの映画にして、もう映画と現実は別物なんだと別れを告げるようなロマンとリアルの衝突というか。夢のように呆気ない。
相米が52歳とか、小津が60の誕生日とか、海外から見たら日本の監督が早逝してしまいやすいという印象もあるのかもしれないが、でもここはベッケル54歳(ルノワール84歳)、ペキンパー59歳(ドン・シーゲル78歳)という方がよぎってしまう。そういうこと書くのは不粋なだけだろうが。

ラピュタ阿佐ヶ谷にて久我剛『パンティ大作戦』。六邦映画特集へようやく。そもそも優先順位をなんとなく後回しにしてしまったせいだが……。
マダムX(谷ナオミ)は男嫌いの下着デザイナーにして未亡人。彼女が3枚のパンティを通して半生を振り返る。谷ナオミはじめ意外に達者な役者の愉快な芝居とセックスを見ているうちに60分、わりと苦もなく見れる。が、ただそれだけ。それ以外はないもない。じゃあ逆にそこそこうまいのか?
男嫌いの未亡人という設定がナレーションで延々語られるうちに車が到着する。そして部屋には下着が散らかっていて谷ナオミは片付ける。下着デザイナーではなく下着をたくさん持っているだけ? するとようやく第4の壁を破って「驚いた!」とか語りかける。第一話、白のパンティ、いきなり高校生になった谷ナオミがよく考えると男は抱かずに女だけ抱く話。庭に赤と黄のパンティが干してある時はママのパトロンが来てるサイン! パトロンが腹上死するかと思った。第二話、ピンクのパンティ。新婚初夜の話。無意味に淑女のふりをする谷ナオミは芸達者で魅力的だが、物語的には本当に無意味に振り回す。第三話、ブルーのパンティ。思い出でもなんでもなく、いきなり現在進行系の話にシフト。先の読めないマジの無意味さ。ボンヤリ見ていたが、本当にいつの間にか未亡人の下着デザイナー、マダムXという名前が一人歩きしている世界で、本当に未亡人か(全く語られないのだが旦那を殺したんじゃないかと思う)、そもそも下着デザイナーかも謎の谷ナオミのカーセックスと、全く一切交わらない別カップルのカーセックスが並行して切り返される。まずマダムXとは本当に谷ナオミなのだろうか。男嫌いとは何なのか。最近の朝ドラも、黒沢清の乃木坂46も、フライシャーの映画も、みんな映画のなかに成功の秘訣など貰えるわけがないと言わんばかりにいつの間にか人生は進む。そもそもパンティ大作戦とは? 次はあなたが谷ナオミを拾っちゃう番かもよ!?と観客に語りかけて終わる。