小谷忠典『たまらん坂』主役をヒロインにしての「自分探し」の旅へシフトしていくのが良いと思えない(特に木の幹を抱きしめての「ママ」とかオフィリアとか)が、最後は思ったより良かった(まあツッコミ入れたくもなるが)のと、七里圭さんの声が良かった。音楽がかかって人が降りてきたり、パンするタイミングも良かった気がする。あとどう考えても既視感ある嫌な役柄になる渡辺真起子も良かったと思う(お付きのロボットとかなかなかの名演)。ただこうして、あれは良かった、良くなかった書いてもスッキリはしない。つまり面白くはない。なぜか。「たまらん」の声にも坂の撮り方にも正解がわからないから? そんなシネフィルぶった理由ではなく、黒井千次の映画だか何だかわからないからか? ドラマがつまらないから? 両親への演出が特に感じられないから? それっぽい美しさや感傷に流されてるから? 最後はそんなモヤモヤや逡巡からの決別かわからないが、そんな映画作家の意図を汲み取るものなのか?それとも僕のせいかもわからない。開始までの15分近い予告たちの9割ゴミっぷりが以前よりさらに酷く見えた。ともかくさすがに見ているこっちに「何を自分は見に来たんだろう」とケイズシネマも映画も揺さぶり過ぎじゃないか。

トーマス・アッシュ『牛久』、そりゃ収容されている方々の同意を本当に取れてるのか、怪しいのは間違いなく、「この映画を見てからアクションに移すのが一番大事」というなら、別にこの件に関心を持っている人が映画を見る必要はないよね?といいたくなる作品ではあった。この牛久や名古屋の入管で行われていることは、難民受け入れを拒否し、刑務所同然の空間へ収容して虐待するという明確な人種差別に基づく犯罪行為であり、または偽善的なふるまいさえできない日本の停滞そのものであり、これを黙認することなど絶対にありえないことなのは間違いないが、それと映像に対する批判を受け付けないのはまた別に許しがたいことだろう。


国立映画アーカイブではミュジドラ脚本・監督・主演作『ドン・カルロスのために』。彼女自身も惹かれることになる役人の男だけでなく、その恋人まで魅了する前半のミュジドラの宝塚的な凛々しい佇まいも素晴らしいのだが(というかフイヤードの映画で想像していた以上にミュジドラだけ見ていればいい映画と言っていいくらい堂々と存在している)、一転して乞食の如き扮装で、捕虜となった男を救うために、敵側のもとへ肩を露わに誘惑しつつ近づく後半の、今となってはユルくなってしまいそうなほど大したことをしていないはずなのに失われない緊張感。たびたび挿入される行軍のショットも不思議と惹かれる。そして海の波面をバックに手紙を記すミュジドラのショットが恐ろしく力強く、凛々しく美しく、でも悲しいほど死を予感させる。そこにカルリスタたちの歴史など、ウクライナでの事態と比べて恥ずかしいほど関心を持ったことがないが、幻影のようなドン・カルロス派の夜の行軍を見たという言葉とともに記憶に残る。そして終盤、こんなにいつまでも交わらずにゆっくりと続いてほしいほど切ない並行モンタージュはありえないと思う。ひょっとしたら彼女がすべては嘘だったと起き上がるのではと期待してしまうくらい。その合間、庭での夫婦の切り返しのほぼ無くても構わない穏やかさが非常に貴い。墓穴に「官能性」?みたいなものがあるのはなぜだろうか。ミュジドラが男女を両側に連れて歩く姿を見てみたい。

 

黒沢清のMVを見るために乃木坂のCDを買った。それくらいはダサいと言われようがやる。
当然廃墟に舞台が移るとスピルバーグが『ウェスト・サイド・ストーリー』の頃に黒沢清は乃木坂のMVか……と思うが、勿論『ウェスト~』と比べたら乃木坂のダンスはかなり魅力に乏しい。話題のメンバーにしても一人で踊っている姿も、集団で踊っている姿も、そんなに目立って良くは見えない。映画は面白かった。少なくとも『スパイの妻』より面白い。先日の楳図かずおインタビューでも、少年少女なら高いところへ登らせられると話していたが、中西アルノもラストに特に深い理由はないだろうが高いところへ登らされる(芸能界を目指す若者を主役に怖い話を考えようとするのも楳図かずおらしいかもしれない……秋元康のような大人が醜さ全開に出てくるとか、当然そんなものは見れるわけないし、まあ、期待していない)。一番目立って見えた山下美月はたしかに前田敦子系の目をした顔だったが、ここ最近の黒沢清の中でも断トツで(いやテレビで見たからかもしれないが)役者の顔が影で隠れ、後ろ姿で早歩きし、鏡のような関係を主題にしながら、女性たちの違いが声の質によって試されるのがいい(それでもさすがに顔を撮る時は撮るし、正面向かって歩くところもある)。物語的に扉が重要になるのは『回路』以来? 濱口竜介より黒沢清の方がずっとルノワール的な映画の監督だと改めて。