結局のところ、最近の日記やツイートに刺激というか、その日に見る映画を選ぶきっかけであり続ける。最近はロメールのカットバックについて、それが本当に正しいタイミングなのかはわからないけれど「官能的」というしかない、という話が頭に残って、ロメール『飛行士の妻』を見直した。カモの餌やりと雨宿りのカフェが印象的で、それは『クレールの膝』の雨がホースを用意したが偶然降ったというのに対して、『飛行士の妻』はもう予期せぬものだった。「今日は雨だが気持ちは晴れ模様に挽回したい」という避けられない人間の何かがあった。それはともかく、ロメールの「官能的」なカットバックがあるか。たとえばシャブロルとロメールというヒッチコックにインタビューした二人は真逆の作家になった。シャブロルの不自然な歪さと、ロメールの「愚かなる妻」かもしれない人々の計算を超えた(計算違い?)男女のやり取り、フランソワは扉を開けて帰ろうとした時に笑顔で別れをつげたせいで、また引き返してやり取りが続いてしまうという愚かだが贅沢な「官能的」な事態が、たとえばプーチンとゼレンスキーのカットバックというものがありえるのか、どう見るべきか、という話として考えるべきなのかもしれないし、それは不謹慎とされるのかもしれないが、だから直接知ってるかどうかを通り越して、もう何か穴が空いてしまった気がしてしまう。そんな不安こそスターリン国葬になすすべもない民衆並に不甲斐ない有様かもしれないが。ガレル『涙の塩』ラストに、彼は神を信じてなかったから、だから泣くしかなかったというが。果たして、あの世で飲んでるとか言えるほどの何も僕にはないが。あまりに早すぎる。ただ『空に住む』は生きながらえたからこその映画だった。何も書くべきではないかもしれないが。