『女課長の生下着 あなたを絞りたい』(監督:鎮西尚一 脚本:井川耕一郎)

鎮西尚一監督のフィルム上映に駆けつけないわけにはいかないと『女課長の生下着 あなたを絞りたい』を見にラピュタ阿佐ヶ谷へ久々に行く。冴島奈緒の役名は「小泉京子」、クレジットには「小沢健三」という役者の名前に94年らしさを感じる。
舞台はほぼ窓際を中心に、そこで開け放たれた窓から吹く風にあたる冴島奈緒の、仕事に対し全くやる気なさげに机に伏して寝る姿の爽やかさも、または横たわった裸体も、フィルムで見ると肌の色がより生々しく、それを目に焼きつけるだけで充分という気がしてくる。ブーツ姿で、どこかたどたどしくも恥じらいなく歩いてくる冴島奈緒のフルサイズの足元に惹かれていくと、直後に滑稽な階段落ちが待っていて、そこで彼女の転倒そのものは見ていないけれど、倒れた彼女自体を見ようとする、こちらの欲望が彼女を決して捉えきれないからこそ更に映画の魅力も増していく。フェティッシュであるよりも、多くをこだわらない素振りに過剰さの魅力がある鎮西尚一監督の素質と、井川耕一郎脚本の組み合わせが、こちらのことなど構わず先へ先へ抜けていく風のような在り方が清々しく、常にこうありたいとさえ思う映画になる。当時であっても影響下にあるのは明らかなゴダールの、今なら『奇妙な戦争』の、もう観客には会うことのできない白い壁に貼られたヒロインの像でも見るしかない、先を行かれてしまった感覚。またはサッシャ・ギトリの、いくら繰り返されても失われない爽やかさ。決して予算がかけられたわけでもない簡素な舞台と、そこから発せられる最大限の豊かさ。たとえばスタンバーグ『ジェットパイロット』のジャネット・リーが制服を脱ぐ間にジェット音が重なるときのような、いやらしく性的であっても、それが吹き抜けていくような感覚が、何分の1の規模であっても成し遂げられている。それさえあればいい。
冴島奈緒が自転車の後部座席に男を乗せて川沿いを走るロングショットが、その相手を変えつつ印象に残る。冒頭に連れられてきた、川へ飛び込む寸前を彼女に救われたという青年が冴島奈緒との性交を経て、体液だけを残し消える。既に溺死した霊との性交という解釈を残すのが実に井川耕一郎らしく、または『雨月物語』的な意味での儚さもある。一方で「かわいい下着が本当はいいけれど、シミとか匂いとか好きな変態が多いのよね」と自転車に乗って颯爽と、というよりガタガタ揺れながら地面の存在を意識させるように冴島奈緒は去っていく。シミや匂いのこびりつくしつこささえ、ここでは誰も座っていない椅子に対して、ただ変わらずカーテン越しに風が吹いているのを見るような、今はないものの痕跡として愛おしく、いわゆる風通しの良さと同一化する。サドルの匂いを嗅ぐ仕草さえ滑稽なお辞儀の挨拶に見えて、馬鹿々々しく猥雑であっても、もはや恥じらいはなく何も気にしない。
寝ている時の、もしくは登場人物に対して以上に、こちらへ目を向けている冴島奈緒へのトラックインまたはズームの、やる気があるのかわからないがやるとなったらやるしかない、そうした佇まいが何かを注視させるのとは異なる印象に繋がる。ただ冴島奈緒のアップを見るだけで価値がある映画かもしれないが、彼女へ寄っていく画に押しつけがましさはない。彼女の存在も風や水と変わらず自然のように吹いてきて染みこんでくる。そうした存在が画の順序の記憶が朧げになるほど唐突に入ってきて忘れがたいものになる。