ラドゥ・ジューデ『若き詩人の心の傷跡』。ルーマニアユダヤ人作家Max  Blecherのサナトリウムでの日々についての映画。最後の墓を見て、彼の生没年が山中貞雄と同年と気づく。やはり本作でも戦争・ファシズムユダヤ人差別・論争とも喧騒ともつかないやり取りとともに窓から射す陽の変化が記録され、海、雪が見える。一方では砂浜を掘った先に沈められた棺が膿のごとく濁った液に浸される。そして配信で見てきたラドゥ・ジューデの映画の中では初めて恋愛関係にある若い男女が映され(『アンラッキー・セックス』もまた性愛の話かもしれないが)特に終盤の男女の衣装の色彩の変化に感動する。彼自身によるデッサンのアップから始まり、ナイフに刺されたパンの切断面から血が溢れ落ちている。今となっては症状を悪化させたとしか見えないギプスによる胸部の固定が痛々しい。ほぼ途中から車輪つきのベッドで寝たきりになって移動するのが、どこかベッドに眠りについたまま浮遊する感覚も連想させるが、時には院内で渋滞を引き起こし、またベッドのように馬車の荷台に乗せてもらい、病院には行かなくなった元患者の看護婦ソランジュの家まで逢いに行く。彼女の足は後遺症から金具で固定され、クローネンバーグの『クラッシュ』ほど煽情的に寄るわけではないが、病床でのセックスにて女の足のちらつく様と、男のギプスの「刺さる」様には卑猥さがある。ギプスに固定された肉体からは首が回らず視野が限られるために、鏡がベッドにセットされているだけでなく、たびたび画面中に配置されることになる。だがその鏡も窓から射す陽の美しさとは異なり、おそらく役立っているかはわからない。ただ鏡は絵画の構図に収まる時のように観客をわずかに見つめ返しているようだが。後半ソランジュとは別に、もう一人のベッドに固定された(そして機能しきらない鏡が装着された)女性の患者との室内でのひととき(彼は終盤に力尽きるまで話すことをやめない)と、さらに痛々しく滑稽だが、どこか意外とあっさりした性交(未遂?)があって、官能的な魅力(「いつか続きを」)がむしろ寝たきりの彼女のほうに感じられる。

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仕事により目当てのムルナウも講演もどれも外れることになり、自宅にて今回上映されない『都会の女』を見る。商売に出掛けた先で金にはならない代償を得て帰り故郷に波紋を呼ぶというムルナウの少なくとも『ノスフェラトゥ』と変わらぬテーマで、しかし方角は逆というか。ただそのテーマがはっきりと、限られたカットしかない都市部の街路にて、一つのレールに引かれた2回ほどの移動ショットだけで、一度目は小麦の値の下落を、二度目は駅から引き返してきた彼女がいずれ彼と再会できるだろうという時を、周囲のそんなことなど知らぬ雑踏とともに見せる。その2回の移動ショットは一度目は新聞を見る男を置いて離れていき、二度目は失意の間に合わなかった(と思い込んでいる)女を追って動く。彼と彼女の企みとは別に映画は移動しているという視線が占いとセットである。それは駅前に射す聖なる光としか言いようのない光線の存在も近い(ラングのショットはカッコいいが、これほど映画の繋がりに繊細な時はないかもしれない)。一方で息子を待つ父の、これまた『ノスフェラトゥ』の妻(彼女の病にカサヴェテスは『こわれゆく女』で意識しているはず)と対になるかもしれない(母が息子の帰還にあそこまで涙するのは、この嵐を感じ取っているからに違いない)愛情をもって待っていたはずが、彼は息子の手紙を読み、結婚をすぐに承諾するcity girlがgood girlなわけがない、息子は騙されているという。偏見ではあっても、そこに彼を愚かだと観客に意識させるわけではない(彼の威厳は失われていない)。ムルナウと監督としての活動時期は近く(同時に監督としてはムルナウと同じく決して長くはない命の)、映画に妖しげな誘惑者を出す点も通じる(というのはモンテイロをめぐるあれこれのおかげで気づいた)シュトロハイムなら詐欺師に違いないが、誰もシュトロハイムほどのリアリストにはなれないし、偏執狂な繋ぎもできないし、やはりムルナウはそうせず(それでもムルナウの映画の繋ぎは『ノスフェラトゥ』を全編繰り返し見返さなくてはと思うし、これはロメロの『ナイト〜』の慎重な自動車の繋ぎからテーマに飛躍して彼のキャリアを貫くゾンビの広まりや、ある意味では『スペース・ヴァンパイア』の怒涛の展開など限られた映画しか追い付けていないと思うけどスペバンは何となくラング側に近い気はするが)、映画は誘惑という行為だけで物事を運ぶわけではないと知らせる。そして『サンライズ』の何もかもが祝福している気がするという(これを『ベイブ都会へいく』に引用したのは正しい)凄さを思い出す列車の煙(これは駅員による人間同士のあくまで繋がりだが、いや、ペストの人知を超える脅威と同じく、やはり列車自体が祝福してると感じる)、初めて麦畑を駆ける新婚夫婦の幸福な意味で夫婦の枠に収まらない最も幸せな男女という、今更自分が言う必要もない、なんか自宅で見るだけで勿体無い映画史上最も愛しい移動撮影。そしていろいろあってラストには「クレメンタインというのは美しい名前です」に匹敵する「父さん。紹介するよ、ケイトだ」。まだ嵐の前ぶれではあっても。

徳がなく、朝からフォード2本売り切れにより間に合わなかった。先週はペキンパー二本立て@早稲田松竹は見れた。今更『ワイルドバンチ』の感想を書く気分になれないけれど、ロバート・ライアン側の面々なんか初見では頭悪くてクソみたいなゴロツキくらいに識別する気もなかったのが、こういう一本の映画の中では死ぬような人たちと繰り返し付き合ううちに映画の中でしかできないような関係が生まれるんだろうなと改めて。ライアンから「こんな奴らと」「お前らなんかよりパイク側に」とか言われる度に見せる顔がなんかたまらないものに見えてくるから不思議だ。『砂漠の流れ者』は全身像から胸の谷間まで眩い!とエロ目線といえばそれまでだが、本当に眩い。あとジェイソン・ロバーツのダンスも!『特出しヒモ天国』のあの念仏とストリップ小屋が隣り合った環境にこうした映画の世界がかなり近い。

フォードに敗れてユーロに降り『裸足で鳴らしてみせろ』を見る。なんかボンヤリ話が進むなあというところもあるが(似た題材なら『ワンダラー』のほうが好きか)、着地点はやりたいこと全開で、まあ、そりゃ泣かせる。知らなかったから友人2名もクレジットで見ると思わずビックリ。僕が映画見逃したり、ぼんやりしている間にあくせくみんな働いているのだった。