『熱のあとに』

『熱のあとに』を見る。ある出来事を経験した「その後」を生きることから始まる映画ではあるが、それでも127分という時間が長すぎないかと苦痛にはなる。
彼女が過去に男を刺したこと、そうした実際の事件を題材にした映画でありながら、観客として知っている前提で見ようとする側をあえて煙に巻くように(ナンセンス志向なところもある)、どこか断片的である。お見合いをした男が違う職業、違う名前、そもそも結婚する気なんかないという話をする切り替えに対して、その流れに乗せられてか、彼女が軽くはないが、呆気なく過去のことを言葉にする場面では窓を開けて車の運転中ということもあって風の音を重ねる。台詞の強さに対して、そこに没入するだけではない距離を与えようとはしている(特に終盤の母親が泣く子をあやす声は印象に残る)。また後半になると彼女の台詞としては聞かされていないホストに貢いだ過去を、夫が口にする場面があって(そうした出来事自体は昨年問題になったが映画として予想外なものではない)、映画ではオフにされていても登場人物たちが知らないわけではない。
どちらが懺悔するかわからない懺悔室が出てきたり、引っ越しや駆け落ちなど特定のパートナーを選んだり、一か所に落ち着くことがなさそうな人物にしたりしているのに、型通りの田舎と都会から抜けられなかったり、そもそもヒロインはじめ主要人物に地球に染まりきれない宇宙人らしきものを感じさせたりと、共感を拒み、空間を目に見える以上に抽象的なものにしようという「作家の映画」だと思う。
「その後」をどうやって生きようかという話ではあり、一本の作品として演出が一貫し、脚本に人物の目指すべき社会との対峙の仕方があったとしても、終盤のボートや包丁の使い方など人物の内面から出たというより筋立てやシチュエーションに落とし込んでいるだけに思える。プラネタリウムの場面も明転すると周りが何事もなく帰っていくのも、どこか安易な落としどころに見えるし、ラストの台詞にしても、その後を見せず最後の画ありきになっているように見えてしまう。
二時間以上の上映時間に対して、見る側の関心を裏切ろうとする意思はあっても、見る側のモチベーションを持続させようとせず、どうにも付いていくのがつらい。