『遺灰は語る』『栗の森のものがたり』『スラムドッグス』『首』

先日、パオロ・タヴィアーニ『遺灰は語る』をようやく早稲田松竹にて。
 列車の旅の映画なら最近だと『コンパートメントNo.6』が良かったけど、本作の何だかんだ物言わぬ骨壷の旅は列車、車内と久々に映画館の暗さに浸る感覚。冒頭の白髪になっていく子たちはマリオ・バーヴァの世界か? ムッソリーニピランデッロの遺体に黒シャツ着せろという序盤は大島渚『ハリウッド・ゼン』のまだ見ぬラストも妄想する。骨壷を棺に、というシュールな状況で、しかも子供用の棺に入れられての(これはもうピランデッロではなく、統一教会じゃないが「壺」だ)葬列を見ながら、子供の心無いジョークで笑って伝染していくという移動を見ながら、そこもタヴィアーニらしいようで、『黄金時代』から晩年のブニュエル『自由の幻想』『銀河』とか、同じく葬列を扱ったベルランカの映画とか、そうした面白さもあるけれど、最後の余った粉を海へ飛ばす場面に、なんとも情のない映画の中で、これまた効率的かつ罰当たりではないやり方と感心しつつ、ただただしみじみ感動してしまった。実はピランデッロのピの字も理解できてない不勉強な自分だが、ここから始まる短編『釘』でピランデッロ追悼号でも読む感覚で見始めると、これまたそんな生易しく理解するためのものではなかった。題材的には『異邦人』と『ドイツ零年』の間のようで、そしてうまく感想いえず信頼できる評も読めてないウェス・アンダーソンによるロアルド・ダール連作(こんなにウェスの映画を静かと思ったことがあったか)も思い出した。
グレゴール・ボジッチ『栗の森のものがたり』。
序盤、眠気に負けるほどの画面の暗さ。起きたら川を栗が流れていた。
一つ一つ画の暗さは凄いが、一眠りした後だと、だんだん普通に物語のある映画だとわかった。『ミツバチのささやき』を好きな人に薦めたいと書いている方もいたが、うーん……。いや、エリセを引き合いに出せる監督はほぼ期待できないだろうが。甫木元空の『はるねこ』に近いか?
やっぱ『ミツバチのささやき』はまばたき一秒してやるものかとなるが、そういう緊張感はなく、あっさり霊が出てきたり、時間を操作して語り、いきなり音楽が鳴って踊りだす。画面は見えにくいが、手付きはわかりやすい。
 
フィルメックス始まったが特に行けてない。
ジョシュ・グリーンバウム『スラムドッグス』を近所のシネコンで見る。
ゴジラ』も『つんドル』も『花腐し』もまだ見てないが、気軽なものにしてしまった。
いろんな意味で『コカインベア』や『ピーターラビット』を上回るスゴさで、犬のディープフェイク映画みたいだった(人面犬ではない)。終盤にかけて主役が喋るアップが『ハウリング』かチューバッカでも見てるよう。もう『アバター』より必見じゃないか。
しかしモンテイロやイオセリアーニ見た後だと犬本来の吠える声こそ人間の喘ぎ声とともに聞きたいかもしれないが、腰振りはたくさん出てくる。
そういうことさえ気にしなければ無茶苦茶面白かった。もう『猿の惑星』といいウンコは想定の範囲内だが、これからPFFと聞く度に思い出すに違いない。PFFs forever!(空耳か?)  holly fuckなんて言うのかと思ったら『エル・トポ』かとツッコミたくなるハイな展開にも笑った。
フィルメックスと切れた北野武監督の『首』を見る。本当はフィルメックスに行ったほうがいいのかもしれないが我慢できず。
楽しみすぎて何を見てもOKな調子だったから、見終えた今は何の悔いもない。
これほど名のある人物に女性が登場しない映画もなく、しかし名のない(エンドクレジットまでわからなかったが最高な柴田理恵を除き、風貌が印象に残るわけでもない)通りすがりたちとして「女」というのがいたと記憶に残る。ここには光秀の母御前も信長の妹もいない。ただその記憶もいつか、陰毛よりも役に立たない「お守り」になったでんでん太鼓一つに行き着くに違いない。
なんとなくパゾリーニ的な?予想外に加瀬亮以上に狂った王に近い儀式をする西島秀俊。なぜか岸田森が怪演した『おんな極悪帖』もよぎるが、それでも西島秀俊の怪演といった印象は一切ない。それは映画の切って貼って繋いでのマジックか。どことなく遠藤憲一からウィレム・デフォーに近いものを感じつつ、スーパー馬鹿に見えるのもマジック。どんな女性よりも不憫になるほど性的な扱いの寛一郎などラブシーンというのを『アウトレイジ』の椎名桔平以来久々に見たり、そうした同性愛の扱いについて何も自分が言える気もしないし思いつかない。そこに黒澤明大島渚を連想して意味があるとも思えない。一方で愛憎関係を繰り広げる武士共(信長へのあれこれは世襲制自民党員にファックか?)に対する「百姓」出身ゆえの、自らを嘲笑う信長に対しても、自らに善意を向ける光秀に対しても、等しく我慢ならない北野武の姿にはやはり本気のものが多くの台詞よりも、両者の間で座しているだけでも感じるし、その憎悪がなぜか一本背負として、彼自身の策略でなく勝手に眼前で繰り広げられて見えるし、つまりは天下取りでなく、ただただ皆が死んでしまえば気が晴れるというか。そして使い捨ての足軽や忍びに対しても等しく容赦ない。
なぜか一番若い信長、すでに老獪な家康、それ以上に紛うことなきジジイのたけしが喋る秀吉。全部が曖昧な印象や、それっぽさとの戯れ。映画は現実の鏡でもなく、歴史や現実のパワーバランスともいっそ無縁で、観客と映画の間の戯れだけが残る。この『たけしず(変換めんどい)』『監督ばんざい!』あたりから腹をくくって『アウトレイジ』、そして『龍三〜』の漠然としすぎた昭和を経た境地。もはや誰が死のうが生きようが天下取ろうが関係なし。男も女も同性愛者も幽霊も幻覚もすべて意味なし。全員悪人ならぬ、いつか全員死亡である。
見事な不意打ちとしか言えない長回しもあれば、勝村政信桐谷健太の謎の見せ場のような予想してなかったお約束もあり(テレビの時代劇コントでありながら、北野武とも無縁でない監督による『D.I.』『黒衣の刺客』がよぎった)、津田寛治寺島進の呆気ないようで意外と愛のある出番とか、そうした全ては驚きであって、同時に驚きでなくても結構、かまわないという達観。もう何の先を読む気にならない。
北野武の動きが遅くなったから130分以上の尺が奇妙に苦にならないとか、(青山真治監督など既に書いてる)イーストウッドの遅さと重ねた理解も可能なんだろうが、しかし北野武木村祐一との妙に早い切り返しから(この映画の木村祐一のアップの挟み方は変になる)、ついにはありえない対面を果たして、平然と大森南朋の芝居を衝立の影で一緒に映って笑い合うに至って、それからの彼の運命は公開初日に書くべきではないが計算されている。分身や身代わりや使い捨てや、その辺の主題が全編貫かれるのは想定の範囲内かもしれないが、それにしても西島秀俊の最期をめぐっては本気で美しいと息を飲んだ(その後のある人物の最期も)。雨のなか、傘をさして歩く浅野忠信を追う移動撮影も、映画にとっているかいらないかを超えて、無意味に忘れがたい(ある場面での無言のアップには笑った)。一方で大事な会話ほどすべて悪い冗談でしかなく見えてくる。誰も信用できないのに、誰も彼も次のカットでは考えが変わってそうなのに、なんだか腹の底を探ろうという、先を読む気なんか起こさせない。ただただ映画を見たというだけ。記録も何も残さない。面白くも何ともない場面がなぜだか終わりにかけて増えるのに、最後は何もいらないと思えない、こんなの余韻がない終わらせ方のはずなのに、ひたすら余韻に浸る。