自宅にて青山真治監督『シェイディー・グローヴ』を見直す。なんとなく「青山作品で一番好きなのは?」と聞かれて本作を答えた思い出もあるけれど、容易に好きと言ってはいけない暗さというか、掴みどころのなさというか……主人公が宣伝会社に辞表を出す、映画美学校が試写室として出てくる、というのが映画ファンらしさとは別種の時代の変化みたいなものを記録しているのか? 同年、『大いなる幻影』の映画美学校があくまで、かつての銀行になるなら、『シェイディー・グローヴ』の映画美学校が試写会場というのは事実そのままというか。桶川ストーカー殺人事件が翌年? 鎮西監督の(一時引退状態前最後の映画?)『ザ・ストーカー』が97年で、別にストーカーというのが冬彦さんとかドラマとか、別に時代に区切られるのかは何とも言えない。そして携帯電話をかつて森のあった場所へ向ける行為に見られる写真との近さ。なぜ携帯電話を持ち上げるのか、今となっては電波状況も何も変わってしまって、写真でも撮ろうとしてるようにしか見えないし、それとも録音?だとしてもこの携帯電話の使い方は謎めいたものになって古びるどころか時代を超えている。自動車と電話というのは最近読み始めた中上健次文学講義にも早速出てきたが、しかし電話も自動車もグリフィスの時代からあるものといわれたら、それまでだが。

山本嘉次郎特集にて『孫悟空』(40年)。いろいろ円谷英二の見せ場ありだが、前後編とわかれるだけあって長いから疲れる。なんか最後がよくわからない前編の三益愛子に驚く。オペラガスを吸ってからの一幕が馬鹿々々しくて笑った。観音様の花井蘭子(もっと見たかった)と、三カットくらいしか出ないけどキラキラ輝く若々しい御姫様の高峰秀子(なんと鼠の着ぐるみに化かされているのだがレンズを覗くと本来の彼女になるのだ)を見れてよかった。
藤十郎の戀』(38年)芸道物。序盤は字幕がインサートされて記録映画風に始まって、終盤になると思い切りソ連映画風のモンタージュを入れたりする。これまた題材は日本的だが映画はいかにもハイブリッドというか。上演場面が非常に興味深い記録になっていて、エノケンの映画も彼らの芸を記録していたと言えなくもないような(ちょっと違うか)。入江たか子長谷川一夫の夜の出来事はさすがに緊張感あるが、それを再現しようとするくだりが、まあ、普通だなあと思ってしまった。『ドライブ・マイ・カー』とか『エルヴィス』とか同時上映したらいいんじゃないだろうか、など。

アテネ・フランセにてムルナウ『最後の人』(24)。
以前見たより、あのスポットライトの後のエピローグでの「作者による」笑うしかない救済に見ていて感動するというのが、倒錯しているようで、やはり感動してしまう。また別のエンディングが存在するというのなら映画が一人の作者によるものではない商品という有様をこれ以上なく突きつける(映画のタイトル自体も『最後の笑い』かもしれなかったわけで)。また、あのコートを瞬く間に盗んで飛び出して帰る時に既に映画でしかできないことはやられているのかもしれないが。ウィキ見たら同年にキートン『探偵学入門』、翌年にチャップリン『黄金狂時代』、四年後にブレヒト三文オペラ』初演。ジェリー・ルイス『底抜け便利屋小僧』のスタアに出世したルイスの一人二役のポスター貼り(またはそれを転用した『TAKESHI'S』エレベーター前での北野武ビートたけしの刺殺、または『アウトレイジ』一作目での中野英雄に襲われるラスト)の切り返しが、終盤のトイレでの一幕からいただいたんじゃないかと気づく。まあ、演出上の偶然だとして、この隣り合う横同士の切り返しが上下の関係に対して、より何らかの(作者の?)采配を意識させる。ともかく映画に感動するために自分が抱えているだろう逡巡みたいなものを経て、なお作り物の結末に感動できるという。その『タルチュフ』の劇中劇といい映画の構造に対する視線からムルナウジェリー・ルイス、カサヴェテス(また違った角度からヤニングスに似てるウェルズや、モンテイロなど)と自作自演の作家にも影響を与えているのか。初見では『サンライズ』とともに、なんだ、この展開は、と実はついていけなかったが。

バーバラ・ローデン『ワンダ』、ロバート・ダウニー『パトニー・スウォープ』のどちらも見逃さずに済んだ。なんか二本立てやりそうな組み合わせだから将来的には損しているように思われそうだが、ともかく見た。昨年思いっきり置いてきぼりを喰らったロバート・ダウニーの映画だが、『パトニー・スウォープ』のほうがもう少し笑ったが、やはり初めてマルクス兄弟を見たときの「これを面白がれない自分は映画をもう見ないほうがいいかもしれない」というショックがやや蘇った。マルクス兄弟を好きなワイズマンの映画も大学時代は本当にどうしても寝てしまい、実は何がいいのかさっぱりだった。でも僕は慎重な人間だから絶対にそんなことは思わないし言わなかった。今なら面白がれる。どうせ自分はかつての人たちより感性が死んでいるから、こうして遠回りしなければいけない。感性が死んでいる上に論理的な思考もできず、ただ穏やかに時間が過ぎてほしい。