『ナナメのろうか』を見ながら、筋を、構成を、台詞の意味を、何かを追おうというのを避けたかった。タイトルも、なぜ(前作に続き)女性二人なのかも、モノクロなのかも考えたくなかった。その理由がどこからきたのかはわからない。ある程度は作家の意思によって映画が空中分解しようとしているのだとして、その揺らぎになるべく乗るように感じていたかった。
『ある惑星の散文』に続き、やはり地盤が傾いていないようで実は傾いているのか、ともかく本作もまた(海に? もう海は出てこないが)浮かんでいるような映画かもしれない。段ボールの底も抜けて、階段からあれやこれやが落ちてきて、話をひっくり返し「随分遊んじゃっ」て、でも底の抜ける瞬間そのものは映らない。それは画面外で起きている(その理由も考えたくない)。
女性が建物の周辺を走って、建物の周りは繋がっていることがわかる。「だるまさんが転んだ」を試みることで、彼女が永遠に相手に辿り着かないなんて絶対にありえないはずだと確かめる。女性二人は外界との繋がり方に応じて(それは運なのか)状況を左右され、孤島にいるわけでもないけれど、それが救いになるわけでもない。一人の女性のバストショットからポンと画が引いて、それでもフレームは二人の女性を収めずに、やはり同じ一人しか映っていない時に、映画は女性二人の間に広がる隔たりをさらに誰にもわからせるレベルをやや逸脱して、余白と外気を見出し、飛行機の音とともに映画が動き出すのを予感する。だが二人の女性は映画と共にどこへ行くのかと思いきや、空間に囚われるわけでもなく、広がりを想像させる風と光と闇らしきものに別々に包まれることになる。
『ある惑星の散文』の彼が帰ってこないアパートの一室にて、何かを我慢しきれないかのように、その一室に孤立しているかもしれない状況を拒み、外界との接続を(ネット上のスカイプもしくは脚本家としてのキャリアの見通しの不安定さに対して)必要とする。そのために音が聞こえてくる。だがこの音は外から聞こえてきたというより、幻聴は言い過ぎなら、やはり演出されたものだ。はたして『ある惑星の散文』の外から聞こえる音が一人の女性の置いていかれる心情とリンクしていて、『ナナメのろうか』はそんなことを聞きたくないし話したくもないんだという心情があるかのように、掃除機をかける音がして、段ボールの底が抜けて、廃品回収の声が聞こえて、蜜柑の話題がやってきたのかはわからないし、余計な憶測かもしれない。
ところで深田隆之氏の取り組んでいた『私のための風景映画』というフレーズは何だったのか。その答えが『ナナメのろうか』という(奇妙な?微妙な?)タイトルの映画にあるわけではない。私のための風景も映画もありえないかもしれないが「風景映画」ならあるのだろうか。あの微妙な距離、あの時間、あのボールの移動、あの重力、その存在しないはずの「私のための」風景映画を求めているが、どうも『私のための風景映画』になるには、音を、風を、闇を呼び寄せる必要がある(そのための最大の儀式がピストルなのか?)。本当にこの場に聞こえているかわからない音による環境下で「私」が映画の中に二人(三人?四人?もっと?)いる。映画が引き裂かれ、それぞれの人物が「私」として家の中をさまよう感覚だが、その「私」と見ている私もまた別である。この映画を、ここに出てくる姉妹のことを理解できた気に、この映画だけでなってはいけないという心情と出会うことになり、その衝突は別に誰のためにあるわけでもない。だがこの映画は『私のための風景映画』ではなく『ナナメのろうか』だった。傾いていないようで傾いているのかわからない斜面の存在しない廊下の映画だ。
9月10日より東京・ポレポレ東中野にて公開。