『きのう生まれたわけじゃない』(福間健二)

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福間健二監督・原案・脚本・出演・音楽の『きのう生まれたわけじゃない』を見る。
良い映画か、面白い映画かはともかく、新作ができたら見に行ってしまう。映画の大半がそうだというわけでもなく、むしろよくわかってないギャラリーに行くとか、それこそ詩集を買って読もうとする行為に近いと言っていいのか。『岡山の娘』に不思議と感動したが、しかしそれ以降の福間健二監督の映画を見て、はっきり感想を言えたことがなく、あえてかわからないが見直していないし、思い出せないところも多い。だからと言って『岡山の娘』だけ良くて、それ以外は駄目と言いたいわけではない。また福間健二監督の映画を悪く言うつもりもないが、たしかに良く言いたいわけでもないかもしれない。だが、その良し悪しの判断に意味は見いだせない。だが好きだ、という反応もわかりやすすぎる。見に行くのが楽しみであって、それがどうだったのかと聞かれたら、むしろ見ている間に何も言うことがなくなっていく過程にさえ感じる。
取り留めのなさと小っ恥ずかしさ。福間健二監督作の人物がカメラ目線で詩を言葉にするカットは見ていて、どうこちらが反応していいか恥ずかしくなるし、人物たちの語りも一つ一つ今は思い出せない。本当は自分も映画ならカッチリした堂々たる新鮮なものを見て刺激を受けたいのだろうが、そうではないのが福間健二監督の魅力というのは乱暴か。もっと監督作の言葉からいただくなら、「上の空」になりに見に来ている感覚なのかもしれないが、そううまいこと言えるかもわからない。
しかし漠然と『秋の理由』『パラダイス・ロスト』と経て『きのう生まれたわけじゃない』へ至ったのだという感動もある。それは同じく鶏の出てくるレオナルド・ファビオ『闘鶏師の恋』や『クライ・マッチョ』といった愛すべき映画や、未見のヴェンダース『Perfect Days』とも比べられるんじゃないか。単純に撮影が鈴木一博から変わったことも関係しているかもしれないが(撮影・照明:山本龍)どこかしらへ向かおうとはしているに決まっているのだ。

相手の心を読めるという人物がいて、その七海は何者なのか、こちらから見れば曖昧かもしれないのに輪郭ははっきり存在している「人」であって、母親役の安部智凛、なんにでもなれるという今泉浩一ふくめ、あらゆるものが消えてしまう前の最後の出番のようでも、平然と再会できてしまう本作に相応しい。口を開かなくてもオフの声がやり取りを始めるのだが、そうして過去作のヒロイン・佐々木ユキと話す時は不思議と声と映像の結びつきが軽く、ちょうどいい。また監督自身の出演も、その映り具合の目つきの迷いというか、ここになぜ自分がいるかの迷いのような不安定さも、大丈夫なのかという不安も、どことなくちょうどいい。公園の男たち(老けたというのは失礼だが常本監督を久々に見た)とのやり取りから白い布をまとって入れ替わり話すに至るシーンには、その前後の繋がりが断ち切られ過ぎず、これまでより監督も含めて一つの芝居が作られているように見える。住本尚子さんも上の空というか、心が読めそうで読めない、仲よさげなのに急にそっぽ向いて消えそうな不安定さがよくて、そんなだからこそ終盤に七海とのスタバ前でのやり取りはグッとくると同時に、こんなの作品全体と関係なく良い感じになるに決まってる、ズルいとか言いたくもなる。やがて福間健二はどこかへ向かうのだが、それはある目的がわかるようで、やはり放浪のようでもあって、正木佐和の一人二役に守屋文雄との再会もドラマになりそうで、あえてなのか、某政党のポスターが映り込むカットで呆気なく実現し、クライマックスとしての感動でもなく、直線的であることを避ける。
そして終盤に2回、切り返さず相手の存在を見せない。弟からの手紙は、この監督の映画の残した言葉の中で最もシンプルかつ記憶に残りそうだが、そこで弟も不意に目の前に現れるかと思うと、そうではない。彼は再登場しない。二人は弟ではなく観客としての自分を見つめているのかもわからないが、もう少し先がありそうで断ち切る。消える予感もあれば呆気ない再会もある映画で、終わりは終わりと思えない中断でもある(演出家としての福間健二の先を見たくもなった)。その判断が良かったのかも、やはりわからない。