『エドワード・ヤンの恋愛時代』

エドワード・ヤンの恋愛時代』または『独立時代』。見終える頃には『独立時代』という題のほうが相応しいと思うけれど、映画に二面性みたいなものを引き出したかもしれない。その二面性らしきものを今はっきり言葉にできる自信はない。
大した事件が起きるわけではなく、しかし人生の何かに触れるような時間を過ごす、一回見ただけでは掴みきれない、これぞまさに「大人の映画」と言いたくなるし、なんならエドワード・ヤンの映画を見ること自体が「大人」になる一歩と思いたいくらいだが、果たして本当にそうなのか、そもそも「大人の映画」とは何だろうかという疑問も湧く。
登場する女性たちはモーリーもフォンもモデル体型、チチは可憐であっても「女性」としての容貌の魅力と無縁ではなく(その内面と外見の間で「フリ」の問題も出てくる)、一方で男たちはメガネもスーツも、子供がそのまま背広を着たような芋っぽさというか、その男女の外見上の差はエドワード・ヤンの映画の中で珍しいことではないのだが、本作が最も容赦なく視覚化しているかもしれない。そこに台湾に限らず責任をとれない男性の問題はあるのだろうが、内面的な成熟の差については、この内面というものに近づきがたい映画では安易に触れないでおく。
ともかく外見のせいか男女は倦怠期というか、そもそも総じて終わりかけの関係どころか、いつでも交換可能な状態どころか、もう性的な結びつきがあるのかさえ疑わしい。プールサイドにいるモーリーとチチというヒロイン二人のショットで(この直前に「フリをする」ことについて字幕が出るが見終えて時間が経つうちに正確な文言を忘れた)、モーリーはトレーナーに着替えていて、それが他の男達とは違う意味で少年らしい美しさを喚起させて(それが後半のモーリーからチチへの疑いにも、終盤の和解にも説得力を増す)、だから互いに咥えた煙草をつけあう仕草がこんなに接吻に近い官能性があるのかと驚くが、そこにシスターフッドレズビアンというより、現実に叶わない関係を見ている気もする。
何なら誰と誰がカップルかさえ把握しきれていない。最後にエレベーターにて感動的なラストを迎えるチチとミンにしても、車内にて言い合いになる場面を見ながら恋人ではなく「互いのため」という言葉を使うほど腐れ縁どころか血縁関係に近いしがらみに見えてくる(兄妹か弟姉かはともかく)。その両者がラストの抱擁でもって男女として結ばれるから感動的というわけでもない曖昧さがある。恋愛の終わりが別れを意味するわけではないということか? しかし一度見たきりでは判断できないからこそ繰り返したくなる(それが「大人の映画」?)。
その前夜にミンが自宅にて遠景で結ばれるのが、自分にはモーリーではなくフォンに見えて、そう解釈しかけた。フォンとミンが家路を歩くカットでの、向かいから夫のラリーがいるのに気づいたらしき(このロングでのカットバックもいい)フォンがミンをタクシーに乗せるくだりが頭に残っているからか。ところでフォンとラリーが夫婦であることさえ、この場面で初めて認識し、直後のベッドシーンも暗転するためか、たとえフォンの着替える様子が見えても色っぽさとは異なり、フォンとミンの結ばれることのなかった一夜を惜しいと思う気持ちにも繋がらない、ただただ「寝る」ということにしか見えず、そこではフォンがラリーの策謀に手を貸すことになる。話を戻すなら、やはり「芸術家」のバーディーに身体を許したフォンの行き先を想像したからかわからない(正確に彼女がどうなったかは劇中の新聞を読む人々のみ知る)。そこにモーリーの車が見えたのだから容易に彼女と気づくべきだったのか。その後モーリーの裸体の背中をミンとの行為で見て、それは確かに色っぽいのだが、そこでも画の微妙な暗さか、あくまで彼女の背中と、彼の正面向いた肉体の結びつきそうで付かない体勢からかわからないが、やはりモーリーとミンという組み合わせにしっくりくるものはない。ただモーリーが画面外へ消えてから独白を続けるミンの裸のバストショットと、それに続く黒画面と、まるで冒頭の字幕を振り返るように過ぎていった歴史が口にされるくだりがあって、声のみが画と分離して人物からもはなれていく(その分離する感覚は別の場面から濱口竜介監督のパンフ掲載の評に触れられている)。
チャップリンと同じポーズを(バーディーの「アトム大好き」まではいかなくても)オマージュというほどでもなく軽薄に同じ姿勢に収まってしまうアキンを見ながら、しかしチャップリンがあの姿勢と目つきで何を考えていたのかはわからない。一方で重要人物に収まる小説家が部屋にウディ・アレンの(オードリー・ヘプバーンと比べても)小さな写真を貼っていて、彼がチチを追って後ろから車にぶつかる交通事故になって、天啓を受けたとばかりに独白を始める姿(暗闇に消えていく彼は結局轢かれたんじゃないか)にも真っ先に連想するのはウディ・アレンのことだ。ある意味でアレンはチャップリンより「大人の映画」であり、その人物には醜態がつきまとう(しかしアレンの映画も見返さなくては)。ウディ・アレンチャップリンが本作の不釣り合いな男女の容貌に説得力を与えると言っていいかわからないが、映画で彼らを知らずに演じた男達はいずれも男女の仲になる可能性が残されているのではなく、もはやそうした関係への悩みを宙吊りにする。アレンに見えなくもない小説家以上に、それをどう受け止めていいかわからない状態のチチの顔が最も目を引く点は、やはり濱口竜介監督がその後の感動的なチチの後ろ姿と、その前後に多くを占める暗闇の中の人物とともに書いている。所詮は引き立て役なのか?
男性の幼さは彼らがスタジオにて追い掛け回してる様子など、不倫に基づく喧嘩のはずが子供じみたもので、しかしそこに成熟と無縁の振る舞いを見ても、どこかみっともないものではない。良くも悪くも、彼らに相応しい。ラリーをエレベーターに突き放すアキンに対し、登場したばかりのいけ好かなさはない。「芸術家になりたい」といいながら(無論そんな未来は期待できない)、それが幼稚というよりも彼の現在に相応しい姿ではある。これが果たして「大人の映画」にふさわしいのかはわからないし、そのような受け止め方の先に行くために見直すと思う。

 

(8/26加筆 冷静に考えると、経済的成長の中にいながら、しかし「大人」という成熟とは異なる側へ行ってしまった人々の話だから、そもそも漠然と自分が何となく立てた「大人の映画」なんて言い方がそもそも的外れだった。こういう自分みたいな馬鹿は何も書かない方がいいかもしれない。)