3/7『街の灯』

ダニエル・ユイレが「リヴェットはチャップリン以来の偉大な編集者だ」って言ってたのは貴重な証言かも  「エイゼンシュテインよりチャップリンはずっと実践的」って言ってる上でのことだから】赤坂さんのツイートを読んで思い出したから『街の灯』を見直す。
しかし内容はほとんど忘れていた。どうやってチャップリンの浮浪者と盲目の花売りは出会ったのか。彼女の眼が見えるようになるためのお金は用意できたのか。なぜ一度は離れ離れになり、目が見えるようになった後に再会できたのか。大筋を漠然と覚えていた気になっていたから、それらを初めて見るかのように見れた。31年。ここからチャップリンが77年に亡くなるまでの約40年間で10本程度しか映画を監督できていないというのは、思ったよりも少ない。
よかったと思った個所を書いたり、解釈をしても、すでにそれらは大半の人によって言い尽くされているような気もするから、今更何を言っても始まらないかもしれないが、自分の記憶として覚えておくために書く。

近々再版されるらしい『作家主義』掲載のジャン・ルノワールへのインタビューを読み直し始めているところだが、なかなか頭に入らず(帰りの電車ではついスマホばかり見てしまう)先へ進めないのだが、やはりチャップリンの名前は出てくる。「個人的には、ひとつひとつの場面を互いに別々に、それぞれ小さな映画として構想しようとする方法の方が好きです。チャップリンがとったのもこの方法です。それに、そう、この方法は彼にかなりいい結果をもたらしたのです。」(「でもあなたの場合は、この方法は観客を当惑させるようです」と聞き手のリヴェット、トリュフォーいずれかに返されている。「この方法は、調子を変えることへのあなたの好みと結びついていて……」)この形式が『街の灯』の自分にとっての記憶を曖昧にしていた原因だろうか。淀川長治シュトロハイムについて語った講演の採録が載っている本も持っていた気がするが、読んでいないままだった。シュトロハイムの結婚詐欺師とチャップリンの浮浪者、狙いは真逆だが、映画の主役に選ばれる役柄として非常に近い存在なのだと改めて思ったりもする(そんなことは『殺人狂時代』があるからわかるわけだが)。いずれにせよチャップリンの映画は「リアリズム」というんだろうと。先日見たラドゥー・ジュデも優れた「リアリズム」の作家としてインプットされたが、それはつまり現実を「再構築」する作家たちなんだろう。なんだか人から漠然と借りてきたような言葉ばかり並べてしまうが、それらをなんとかわかった気になれるまで繰り返したい。以前、映画作家の松村浩行が『月夜釜合戦』についての評で、大島『太陽の墓場』を見直して、ある場面にて、その30代手前の大島の鋭敏な感性(と書いていたように思う)と比較して、やはり弱いと指摘していたが、そこはどこだったのか。やはり足を引きずる人間がほぼいないということだろうか。そうだとしたらラドゥー・ジュデから大島渚チャップリン、いずれも足元のふらつき具合には説得力がある。
サイレント映画は音を消して見る、というのが大半のシネフィル仕草だと思うが、では『街の灯』はやはりサイレント映画ではないなのか。ブニュエル『黄金時代』(30年)を誤って無音で抜粋上映した場があったと覚えているが、『街の灯』が31年だから、かなり製作時期は近い。カウリスマキの『白い花びら』は? あれはやはり寡黙な人物を登場させ続けたカウリスマキの映画(しかし例外的な会話を交わしていることが多い印象)と考えるべきか。
チャップリンは車がならぶ車道を横切るが、バイクの警官の前を横切りたくなくて背後を回って、停車中の車のドアを勝手にあけて通り抜ける。そこにたいした迷いはなく、慌てて走ってもいないが、非常に動きはスムーズで速く見える。その扉を閉めた音に反応して、彼の下りた先の歩道、柵の手前に腰かけていた盲目の花売りから声をかけられる。『アンチャーテッド』より荒唐無稽かもしれない、要約しづらい出会いのきっかけ。浮浪者とわかる彼(それでも彼は「放浪紳士」など言われるくらいだから彼なりに身繕いをしている)に、花を買ってくれないか、声をかけるわけがない、それは不自然なはずのことなのだ。落とした花をチャップリンが拾ったにもかかわらず探す仕草をきっかけに彼女は目が見えないとはっきりわかる。そして、やはり車を所有しているような金持ちの人物に花を買ってくれないか声をかけるものだということもわかる(皮肉なことに、彼は車どころか車道を行き交う馬車の馬糞、挙句の果ては象の糞を清掃する仕事で稼がざるを得なくなる)。彼はポケットの中の財産、硬貨一枚を渡して、お釣りを受取る前に、背後の本来の車の持ち主が戻って去ってしまう(ここで車の音など観客には聞こえない)から、彼は彼女の中で「お釣りも受け取らずに去っていく金持ちの紳士」として、消えたふりをしないといけない。
彼女の目が本当に見えるようになる(「YOU?」と字幕が出る)瞬間こそ「電流が走るような」と言いたくなるが、花屋のショーウインドーを挟んで、刑務所帰りの、さらにみすぼらしい身なりになったチャップリンと彼女の間の、互いの声が聞こえないという状況での、チャップリンの拾った(ゴミでしかない)花びらが彼も見ぬ間に、彼女の「私のことを好きみたい」と笑う姿の前で、彼女も見ていないうちに一枚一枚落ちていく、悲鳴をあげたくなるような、まさに何かが終わろうとする状況を演出する。それでも映画は逆に彼女を幻想から覚ますことへ一瞬で反転させる。これまたリアリストのできる演出なのだろうか。
でも映画は思った以上に、男女の物語よりも、これまた背景を多くは語らない、酔うと人格の変わる富豪とのあれこれに時間を割いている。男女の話はこうしてどうせ他の人も覚えているはずなのに、つい無駄に書きたくなってしまうが、それだけで出来ているわけがない。酒の力を必要とし、しかし酔うと不意に自殺への衝動へ襲われる富豪は、チャップリンがいたから生き延びているのだろうし、彼が明日への希望を語って富豪を説得できる力があったのも、盲目の彼女の存在のおかげで非常にポジティブになれていたからだろうからかもしれないが、自分に結ぶはずのロープをチャップリンに結び付けて水に沈めかけてしまったからでもある(富豪は彼を助けようとドタバタになる)。それにしてもアルコールに飲まれて前後不覚な人間の顔。彼の葉巻が誤ってチャップリンの口へ運ばれる時に、葉巻とチャップリンに意識をもっていかれるが、ふと口元に何もなく、どこを見ているともいえない酒に飲まれた男の顔は、何を考えているか読み取れない。チャップリンは隣の盲目の彼女が彼の衣類の紐を誤って手繰り寄せても、あえて不必要なくらい訂正しないが、大半の場合、チャップリンは同じカットに収まった隣人の飲み物やら食べ物やらが意図せず無駄に零れ落ちたり、石鹸と間違えられて使い物にならなくなったり、禿げ頭とケーキが混同されかけたりする状況に気づかない。1カット、フレーム内に隣り合った同士が、知らぬ間に物を浪費されていく。ほとんどカメラが何をしているか、どんな編集をしているか、手つきを意識させない(こちらを驚かせる隙さえない)。ボクシングの試合になってカメラがレフェリーも含めて動き出すのがわかりやすすぎて、シンプルだが、もうこれ以上震えもなにも一切意識させない撮影は今後可能なのだろうか。今なら逆に不自然に浮いてしまいそうだ。この試合が記憶していた以上に彼にとって命がけの(だが失敗する)勝負で、セコンドが花売りの彼女になる幻覚に泣きそうになるが、それは彼にとっても誰にとっても奇跡を呼ぶようなものではない。まじないはきかない。