『涙の塩』が配信中だったから見た。ガレルといえば映画館でフィルムで見るものなんて考えは瞬間的によぎっただけで、少なくとも10年以上前にとっくに捨てたつもりだが、こうして映画祭だか特集上映だか上映やってから、あっさり配信か、というのも何かステップを欠いている気がして、やはり置いていかれた気がする。
既に作家自身がもう傷つく必要なくとも、役者から何かを引き出す。余裕はないかもしれないが、そのための苦悩をこちらに伝えない、ほとんど生活の糧としての領域。そのうち棺を作る必要もなくなる。椅子に座る人間もいなくなる。しかし父は「自分が行かなかった代わり」に息子を学校にいかせる。試験に出てきた18世紀の何かが欠けた椅子を見て、その何が欠けているか試験されるくらいは、勉強が必要だ。事態のきっかけは父子に対する母の不在によって三角形が既に存在できていないから、そこで新たに三角形を欲するからかもしれないが、そこに容易に因果関係を見出して済ませられるような繋ぎ方をするわけがない。いや、実際はそんなことなんだと神から嘲られるかもしれないが、残念ながら神の存在なんか信じていない。一方ではパリにいる恋人からの鏡を前に窒息しそうな電話、一方では復縁した元恋人が窓越しに近づいてくるのを見ながら慌てて切る男。そんな繋ぎはある。最後に空のカットを、空を見上げるカットも、開け放たれた窓も繋げず、閉じた浴室の扉で終わる。裸体を見せ、扉の隙間からトイレを見れた映画も、浴室の扉が閉じれば終わりだとわかる。本当に父が死んだという実感なんか与えてはくれない。ただ流産した子供の知らせのように、棺を作る必要も与えてくれない。扉が閉まるだけ。それとも涙が、塩が残されているのか。

 

ラドゥ・ジューデ『アーフェリム!』評判通り凄い「リアリズム」の作家。必見!と思うのほど配信で見る羽目になるのも悔しいが。ヘッドフォンしていたから冒頭の蠅の羽音から襲う不快感。法執行官親子らの会話や「ジョーク」を読み続けるだけでもなかなかだが(やはり日本語字幕がないと頭に入らない)、逃亡したジプシー奴隷を捕えてから四人の会話が状況に慣らされた人々のやり取りとして、おかしいと思うしかない。あの観覧車で遊ぶのさえ、どうかして死にそうだが(そう思うと黒沢清×前田敦子のもやはり面白かった気がする)。地主の愛人同然についてくる女奴隷?の一つ一つの仕草はじめ細かい人々全員が(獣じみていても)意思をもった人間として出ているだけに、この全編貫かれたおかしさにますますゾッとする。