『瞳をとじて』(ビクトル・エリセ)

ビクトル・エリセ瞳をとじて』。

すでに知ったふうに本作を過去作と比較して劣ると書く文を見かけたが(そんなものに目を通す方が時間の無駄か)、たとえばカラックスの『アネット』のラストが凄いのと同じく、本作もたしかに最初と最後こそ最も感動的かもしれないが、しかし『アネット』同様にそれだけの映画ではない。それに、そのような劣った印象を与えることが現代まで生き残った作家にふさわしい態度かもしれない。

まずメインは会話劇だ。それを無駄と思う向きは何を求めているのか? 『ミツバチのささやき』といえばモンテ・ヘルマン『果てなき路』(もう十年以上前になる)での登場を覚えているが、ヘルマンにしてもエリセにしても過去作以上に長い旅の映画だが、しかしグリフィスにおっている点か、その長さは苦痛ではない。扉を開け閉めして、誰かと会って話す。その時間を省略しない。過剰でもわざとらしくもなく、時にあっさりと暗転しつつ、緩やかな時間が続く。3時間近い時間がなぜ必要なのかあえて問う必然性はなく、また答えるべき答えはない。ただその時間はたとえ観客の(たとえば年老いて)体力や集中力がなかったとしても自然と無理する必要はないんだと思えてくる。照明の力よりも、むしろすべてを集中して見る必要はなく、ただおそれに近い慎重さで繋げられた時間にまばたきしながら浸ればいいのかもしれない。話す人物同士をどのサイズで撮るかが間違いなく重要な映画で、一つ一つの画は練られて決まっているはずなのに、どこか緩やかなカットバックが息苦しくなく持続して見れる。ポン寄り、引きのタイミングに一々オッとなり、話の流れもあって興味を持つから退屈することはない。同時に「ここぞという時」という形容をすることさえおこがましく思えるほど、紛れもなく穏やかとは言えない力でもってクローズアップが入る。そのアップは互いに影響しあって、色が滲み合うような効果がある。そのアップへ繋げていく画面の奥行きはテレビモニター越しのジャンプカットや、あの映画館のスクリーンにまで通じる。まさに人に目があって前がある限り物語は前進し、目を閉じるときに一応の終わりを迎えるが、そこから記憶への新たな内なる旅が始まるのだろうか。まるで映画館の外に(本作で何度も印象深く降る)雨が止んで、夕闇ではなく明るい空が広がっているかのように、何らかの「その後」が各々に待っている気がしてくる。しかし背中合わせの両面に顔をもつ像のように、その目は前方を向くだけでは終わりがなく果てしなく背後(過去、内面、記憶)への目を忘れ去ることはできず、捨てきれず、リフレインされるようでもある。

ウェルズやアンゲロプロスだけでなく大江健三郎もよぎったが、『王国(あるいはその家について)』や『カルプナー』と共に「未完成の映画」を挟んで2時間30分近い時間にわたり、過去・未来が避けられないテーマになる映画でもあった。