『夜明けのすべて』(三宅唱)

三宅唱監督『夜明けのすべて』を見る。
たとえ肯定的な意味であっても本作に対し「何も起きない」といった文言を読むと(またそれが男女関係に焦点を絞った上での話だとしても)少し驚く。そういえば三宅唱監督の映画は『やくたたず』を見たときから「何も起きない」というか、期待した何か(それは「新しい才能の発掘」みたいな驚きを画面から得ようという見る側の欲か? お披露目となった第六回CO2映画祭での「グランプリ作なし」という思い出もつながる)が先送りにされたように見えなくもない。同時に『夜明けのすべて』のラストには『やくたたず』で漠然と見た覚えのあるキャッチボールが10年以上の時を経て、朗らかになって、受け取りそこねたボールとして飛んできたような感慨深いものはある。
プラネタリウムでの解説をするという話が出てきてから、おそらくラストは(奇遇にも日本では同日公開のビクトル・エリセ瞳をとじて』と共に)上映の話になるんじゃないかと予想はできる。だが初見時の印象ではあるが、そこからが2時間以内に収めていても微妙に長く感じた。ただその開演がいつのことか(映画的にすぐ起きるのか?)迷わせるのもあって、確信犯的なものだろう。PMSが月毎に起こる症状で、主な職場の栗田科学には社員の息子たちが学内での上映に向けて撮影をしていて、大晦日の掃除をする場面もあって、メインの男女はいつまでこの職場にいるかわからない時期にいて、確実に時間の流れにいる。もし再見して本作の日替わりをチェックしようと集中したら別の印象も受けるだろうが、少なくとも自分含め大半の観客にとって何日の出来事だったかはどうでもよく見れた(おそらくそうした大雑把に見えてしまっても構わないようにする気配りがある)。そこには本来終わりという概念のない、自らの(または親族、同僚の)「病」との付き合いもあり、または遺族として「死」という概念さえ終わりではなく、そのことが最終的には感動に繋がる。受け取りそこねようが終わりはないキャッチボールの映画か。「夜が明けてほしくない人もいる」という感情もまた否定されず、この時間を受け入れる。
ただそうした感想を書いても、本作から正しい解釈をしたというだけな気もするし、実際そのようなことを伝えるために作られたのだろうと思う。サービス残業を肯定しているように受け取られなくもないが、システムや契約の中に収まりきらない善意の行動とも見れる(アメリカ映画的と言っていいか)。大半は善良な人ばかり出てくる優等生的な映画にも見えて、その病や死の原因であり排除しようとする側としての社会の存在もあることを明示はしないが意識はさせる(『エリ・エリ・レマ、サバクタニ?』の自殺者増加もウイルスだけが原因と一切断定されていないし社会不安と切り離せるわけがない)。そうでなければ彼らが手を取り合うことさえないのだろうともわかる。映画には今より良い状況を見せたいという教育的な役割はあるだろうし、そうした功績を知った上での映画に違いない(やるべきことはこれだと決めたような潔さはある)。
それが『ケイコ目を澄ませて』公開時のユリイカを読んだりすると三宅唱監督本人がそういう人だから、というふうに見えもするし(「ネットで拾える情報は大きな声の人のものだから信じるな」という台詞も原作にあるかともかく監督自身の意見と受け取りたくなる)、実際細やかな気配りのできる兄貴分という人柄の印象として読める(そうでなければ行き届かない細部があるのもわかる)が、そこに捻くれて何か言いたくなる気持ちもわからなくない。
同時に解決方法のマニュアルはないともわかっている。PMSの症状が出た上白石萌音に対して松村北斗が自動車の清掃をするように誘導する場面での彼女の「あ?」というリアクションがスケバンぽくて可愛らしいと笑ってしまう。現実的な解決への糸口はあるかもしれないが、映画として面白く見る。その見方、聞き方、考え方を少し変えて、外側へ向けてみようというのが根本にある。鏡の見えるヨガ教室での彼女の怒りも、それに対する後悔も、どちらも病としてだけでなく否定できない負の感情として存在している。