サッシャ・ギトリ『ある正直者の人生』

サッシャ・ギトリ『ある正直者の人生』。ギトリの出番は前口上とモノローグ、ギトリ夫人のラナ・マルコーニは1シーンだけ。主演のミシェル・シモンはギトリからこのように頼まれる。「節約のために一人二役を引き受けてくれないか」ミシェル・シモンは二つ返事で引き受ける。ギトリの頼みは誰も断らない(ラナ・マルコーニも街娼の役を頼まれ、快く承諾する)。
ギトリの映画には確かに節約精神があるだろうが、それでもここまで豊かな映画はギトリ以外なかなかない。ギトリにおける一人二役は父子であったりコスチュームプレイであったり世代を跨ぐ印象を受けるが、本作のミシェル・シモン一人二役で演じる兄弟の会話は、入口と出口の切り返しこそ危なっかしいが、メインは驚くほどシンプルに同一サイズのカットバックを延々続ける、この名優あっての安定というだけでは収まらない過剰さ、その内容はシリアスでもあるが、いつまでも見ていたい楽しさがある(ジャック・リヴェットによる『我らの親父ジャン・ルノワール』第二部のルノワールとシモンの延々続く会席と並べたい、二人のミシェル・シモンの終わらない対面)。それでも本作のミシェル・シモンには孤独さが付きまとう。弟は自らが役者やジゴロなど(正直「ジゴロ」が強烈すぎて他の様々な遍歴は忘れてしまった)一所に収まらず様々な職を転々としながら、それでも人生を自由奔放に満喫してきた(この語りにさえ漂う寂しさは今ならレオス・カラックスの『ホーリー・モーターズ』に引き継がれているだろう)、そのように兄である自分は生きていないという後悔。弟の「塞栓症」(心筋梗塞?)による死に、医者は「あなたもお気をつけて」と言い、兄弟は同じ病を発症しうるだろうという周りの眼に対して、それでも人生はどちらか一つの道しか選べないという酷な事実は残される。この後悔はあくまで本心は逆に近いとしても、弟の口から「兄のように生きたかった」と言わせるような状況も後に訪れる。夜道を歩くミシェル・シモン(このシンプルな画はある意味『監督ばんざい!』の人形を抱えて歩く北野武も少し連想)には、特にこれといって演じる身振りはなくても、ただ一人しかいない。その夜は灯火管制の夜ほど作り込まれた暗闇ではないが、特に亡くなった弟の部屋で彼が一人過ごす時間に『あなたの目になりたい』の視力を失いつつあるギトリの姿を想起させる。そこへ寄り添うように現れるのはラナ・マルコーニであり、どこかアンナ・マニャーニを連想させる貫禄さえ身についていて非常に感動的であり、これからミシェル・シモンが彼女と人生をやり直す話になるのかと思うと、事態は異なる方へ向かう。また家族との関係を再生させる、意外と毒のない結末へ向かうのかと、それはそれで『ヌーヴェル・ヴァーグ』のアラン・ドロンもしくはジェリー・ルイスみたく感動的かもしれないと思っていると、そうは問屋が卸さないとばかりに、ある夜の妻や子供たちの反応の変化から気づく。ある人物における表と裏での変化が一人二役という題材とあわさって扉入口に頻繁に配置された鏡の存在と繋がるのだろうか。
彼は弟から言われた、二人一緒ならもっとできたかもしれない「いたずら」、この「いたずら」こそ自らが引き受ける運命だったかのように動いているのだと最後にはわかる。本当にこれが最後まで見て初めて観客としても全てに諦めがついたかのように「いたずらのような映画だった」と受け入れるしかない。「あとのことは知らん」としか言いようがないのだが、それでもこの映画にはただただ後悔が付きまとう孤独感から、一切の悔いはないと言い切るしかない方へ転じる賭けがある(そうなるとラストカットのミシェル・シモンにはメルヴィル、ベッケルの映画の主人公に通じるダンディささえ感じる)。一人二役だけでなく、本作には序盤から「正直者」の話に対して、「嘘」というよりは、映画ならではの嘘という以上に「いたずら」と言いたくなる繋ぎがあった。特に全裸に近い姿を披露する使用人が台詞も反応も最小限だが確実に目の離せない存在で、彼女が廊下でミシェル・シモンに大胆かつ瞬間的にササッと胸を触られてから、一家の食卓へ扉から入って出ていくまで、これといって捻りはない単純なカット割りなのにどうしても何が起きるのか注意を向けてしまう。これもまた「いたずら心」がなせるテクニックなのか。