デヴィッド・ロウリー『グリーンナイト』を見た。見る前は何もかも美しい世界とか連想したが、ああ、デヴィッド・ロウリーってこうだよねと気づく。久々に誰が何やら役者名もわからないまま見終えた。というかてっきり主役がアダム・ドライバーだと思いこんでいたから「じゃあ彼は何者なんだ?」と普段から役者の名前に疎い自分はそこから始める必要があったかもしれない。そして異常に魅力的な女優たちの名前もよくわかっていないまま。アリシア・ヴィキャンデルをもっと見たいのに、あえて平然と違う女がやってくるのもまた正しいかもしれない(あの寝起きにあんなことする女優のまさに肌の色合いが時空を超えて70年代くらいにワープしたかもしれない)。のっけからアヒルさんが活躍して『アンデスふたりぼっち』など南米の高山の映画が今作のライバルかもしれない。生々しいのか、作られたものなのか、その境の曖昧さ。何気にエンドクレジット終わるまで見逃せない映画だ(でもあの少女は誰だ?)。よくわからないが凄い映画だった。いや、よくわからないわけではないが、なんだかそういう話をするだけでつまらない映画になりそうで怖いのだ。別にデヴィッド・ロウリーはこれまでもただ凄いでは済ませられない地味さというか、ずばり批評性みたいなものはあって、今回も失われていない。なんだかんだ黒沢清の『モダン・ラブ東京』のキャンプと意図せず並走しあうとかいうやつなのか。個人的には『銀河』を思い出して、ジェット機が飛んできて『砂漠のシモン』というか『ア・ゴースト・ストーリー』のように時空が一旦飛んでしまったかのようだったというか、やはり夢オチというか、一人の人間としてのガウェインを見ているつもりが、やはり裏切られる。それが知的操作云々感じる人もいるかもしれないが、これが映画に人間がプレゼントや見返りや復讐心を求めるばかりでなくやれることじゃないか(いや、この辺の意味をさぐるためには「凄いなあ」から一歩距離を置かなければいけない)。それでもうっかり「一足早い(一年以上遅れた)クリスマスプレゼント」とか言いたくなる感じでもある。それより何より『黒衣の刺客』に匹敵する現代の何もかも新しい時代映画の傑作と言いたいが、僕が言うべきではない。キツネと巨人よかったですね。

ストローブ追悼のためかエッサネイ社のチャップリン監督作を見直したり、初めて見たりしながら、やはり見るたびに以前より充実していた。
フルサイズの人物が収まったフィックスのショットを行き来しながら、二人〜四人またはそれ以上並んだ人々が同一フレームに収まっての、互いに気づいたり気づかなかったりしながらのド突き合いというか連鎖があって、それが別のショットに分かれても連鎖してる。さらに一見つながりがあるか明確でなくなってくる時、どのタイミングで切ればいいか答えがわからない時ほど不思議と感動する。そういう時ほどサイレントになって当時の声のわからない、正確な会話や、そのときに聞こえた声もわからなくなってしまった今こそ、彼ら彼女らの設定上はちぐはぐでも現実には強固な結びつきが、ああ、これが「ショット」と呼ぶんだなと言いたくなる力で存在しているのかもしれない。それを撮って編集できたチャップリンの映画みたいにシンプルな行き来から、どの映画でも意外とバラバラな地点へ飛躍する跳ね方をするから、毎度感動する。あとはあのカメラが斜めになる時など、不意に主観的なものを導入する飛躍か。アルドリッチについて同一フレーム内に人を3人以上入れる時に、チャップリンの影響はあるんだろうか。たしかアルドリッチチャップリンを監督らしさはないが妥協しない人と書いていた。それがまさにダニエル・シュミットや、ストローブ=ユイレに通じるかもしれない。『シチリア!』の列車に向かい合った人々が二人かと思いきや三人いたときに、または何だかんだ『妥協せざる人々』でもメシの話を引っ張り出すときなど、チャップリンを思い出すが。