アムステルダムデヴィッド・O・ラッセルの映画は随分前に尊敬するHさんから「君はあんなごっこ遊び映画が見たいのか?」と詰問(というほどでもないが)されて以来すっかり遠のいてしまった。といいつつ『ハッカビーズ』や『世界にひとつのロマンティック』(最後にカーティスで踊るやつ)はかなり好きなのだが。今回はデ・ニーロが出てると知らず、彼の誕生日に見れたのはよかったかもしれない。ただ映画自体はたしかに「おおよそ実話」だけあって更に「ごっこ遊び」感は強く(僕はHさんではないのでわからないが、その悪い例が『ジョジョ・ラビット』で、良い例がウェス・アンダーソンになるかもしれない)、なかなかグダグダな印象になる。『ゲット・アウト』と『アンダー・ザ・シルバーレイク』の流れにラッセルもそういや近いか。いや、トランプ出馬表明の時代にあの終盤は必要なのかもしれないが。しかし珍しいくらい不意に人が出てきたり、窮地を脱したりするときの繋ぎがイビツというか、だんだんそれもわざとなんだろうと思うが、でもそれは下手な映画というか、まともにサスペンス演出をやる気がない監督がやるとさらにうまくいってない感が強まってしまうとか、つまんない正論ですかねえ、となる。アニャ・テイラー・ジョイはじめ役者はなんとなく見ていて楽しい(というのが「ごっこ」の良さなのか)。

サトミンにお布施のつもりで菊川にてどれか一本くらいは見るかと思っていたが、勢いで『恋や恋なすな恋』(内田吐夢)にする。たしかにこの配信でも見れるセレクションでデジタル上映で割引なしの料金ならどれか考えたら、自然と『恋や恋なすな恋』になるんじゃないかと思う。貧乏くさいことも考えていたが、瑳峨三智子をサガミンと呼びたくなるくらいにはサトミンを思い出した。好きな映画とそっくりの人になるというのはそれだけで尊敬できることだ。これまたお布施だと思ってパンフレットも買ったが、サトミンの序文が素晴らしい。僕みたいな心のさもしい人には書けない心意気のある文章で感動的だった。そして『恋や恋なすな恋』も久々に見て、あの序盤の赤い雲の話がフィルムで見ると退色した映画の話をしているようで何だかおかしいのを思い出した。そして始まってすぐ貧乏くさい邪念など消えた。デジタル上映が何の文句をつけたが、やはり戦後日本の最も大胆で美しいカラー映画の一つにちがいない本作をこうした空間で見るのも違った凄みがある。死んだ榊をわが身に宿したような大川橋蔵の仕草の記録として見入ってしまう。作り物の蝶々を追う大川橋蔵にあわせて、まるで波に乗るように穏やかに上下するカメラの動き。ドロンと煙をあげてアレが飛んでくるのにはやはりビビった。サガミン狐が葛の葉姫に化けるところの仕掛けは忘れていたから照明含め本当に不意を衝かれた。大川橋蔵が正体を知る時に家屋の側を回転させる驚きが、彼の狂気を晴らす。サガミンのベロ、あれは本当にエロい。日高澄子もヤバい。最後には「石がある……」と思わず呟きかけた。そういえば国立映画アーカイブで見た『蝶影紅梨記』という香港映画も作り物の蝶が、こちらはそっくりさんのふりをした本物との再会を果たさせるくだりがあった(これも素晴らしい映画だった)。

レア・ミシウス『ファイブ・デビルズ』。奇遇にもセリーヌ・シアマの『秘密の森の、その向こう』と共通項多い。娘が何らかの手段でタイムリープして、若い頃の母に会う映画。ただし魔女映画的なものに近い。というか、その批評か?(魔女が火炙りにあって現在に転生してさらに酷い自体に!という映画の筋をやや連想して、そこからのズラシ方が見所か?)。娘の反抗に最悪の結末を予想して「大丈夫か?」と不安になりダレるが、わりと良い感じに回避される。とはいえオチ(のようなもの)は好きになれない。

配信にてジャック・ロジエ『Oh, oh, oh, jolie tournée !』を見る。ベルナール・メネズのツアーのドキュメンタリー映画。画面隅に時間の表示が出たままになっていて、あれの名前を何て言うのか(ああいうのが出るのは何となく知ってるんですけど)実はよく知らないまま生きてきた。最近物忘れがひどいし、何も覚えられないので、どっかで聞いたことあるが、ググるだけでは名前は思い出せなかった。まあ、編集の経験も、映画の現場の経験もないし、プロの書き手でもないのと、最近寝不足が酷くてそういうの調べるのが凄く面倒くさくて辛いんですよね(と甘えたことばかりは書ける)。ただあの時間をもっと集中して見ていると編集の複雑さをより意識できるかもしれないが、だんだん気にならなくなる。
ただこの映画がとにかく楽しいというのだけは思考停止しているなりに書ける。最初はツアーの記録くらいに見始めたら、どこへ行ってもあの歌(Jolie poupée)に合わせて踊るベルナール・メネズを繰り返し見ているだけで、楽しげなんだか仕事なんだか愉快なんだか、ちょっと疲れてくるのか、なんともジャック・ロジエの映画だなあと思う。要所要所の楽屋でカメラに向かって踊る黒人ダンサーたちのほうがさらにイキイキしていたり、壇上にあがらされた子供たちが全然踊りについていかないのもウケる。ベルナール・メネズがホテルの電話で起こされてから、風呂場での着替えや電話のタイミングなど、サイズもリズムも見事というか劇映画ともうここまで来ると大して変わらない。扉をあけてホテルのロビーにやってくるのを、ロビーの側から俯瞰気味に撮っているのなんて、本当に距離感が見事というか、なんかホームムービーみたいな画質でも余程映画を見ているという充実がある。自動車に荷物を詰め込んで走り去るまで撮ってから、メネズの車両を後ろについて追いかけるカットへ繋いでいたり(見てないが『情熱大陸』とかもこんな感じのことを実はやっているのかもしれないが)リアル『めまい』じゃないが、そのあわただしいけど、まさに映画という感じ含めて面白い。そして何か書類がないのか車を止めちゃって鞄をあけて探しているのを、何のタイミングに撮ったのか正面向いて白目とかやっているメネズ自身のアップを挟むのも面白いというかブレがない。メネズがペラペラしゃべっていることはフランス語わからないから何もわからないけど、その場で文鳥がピッピ鳴いているのに繋げて、メネズも文鳥も同じくらいいいなあって思う。ジャン・ルーシュの特集は大学一年の時に存在は知っていたのに、諸々うつつを抜かして一回も行かなかったのとかも後悔した。

クローネンバーグの新作『クライム・オブ・フューチャー』を見た。輸入盤を買った。しばらく公開の機会もなさそうなので、22年は何があるかわからない年だからと言い訳しながら、堪え性がないから見てしまった。
昇天。
まさに、イく!
クローネンバーグ史上最も増村的というか『華岡青洲の妻』か? いや全然、熱らしい熱はないが、カメラを手にした人々といい、何かが近い。
フューチャーといいながら化石から始まる。解体ショーに振り切れた映画かと恐る恐る見たが、やはりクローネンバーグは出し惜しみの精神を失っていなかった。
うっかりクローネンバーグを、品があってうまい、と口を滑らせたことがある。当然そんな作家ではない。つまり、やはり詳しい話はよくわからないが、とにかく字幕なくてもわかるくらい皆、興奮してる。おそらく性的不能者だらけだが、会話だけでもイッちゃってる。痛くてもイく。だからわかりやすい。もはや笑うしかない。ソソる(下品な言い方)のはやはりレア・セドゥだが、クリステン・スチュワートのおかしさはクローネンバーグ流のユーモアを体現してる(流行りの『チェンソーマン』の作者が好きそうじゃないですか)。クローネンバーグがイーストウッドの枯れた肉体を欲している可能性は今作でも否定できない(まあ、言わないがイーストウッドの近作を思い出す要素もある)が、代わりにまたもヴィゴ・モーテンセンがもはやエミネムどころかシスの暗黒卿みたいに声がれしてる。彼とレア・セドゥの食事の対比もわかりやすすぎるが笑ってしまう。
ともかくこの乾いた絶望というか、コロナの変異と核ミサイルの世界で、なんともこれまた2022年の気分に相応しいかもしれない。

別に珍しくもない堀川弘通あすなろ物語』を国アカにて今更見る。初見。原作は小学生の頃に途中まで読んで、ほったらかし。人生初の積読? 岡田茉莉子・根岸明美久我美子、ふだん考えたことないが全員好き。この世に永久機関というものが映画の中にだけあるとして(そういえばもう続きを読むかわからないチェンソーマンにも「永久機関発明できたと思ったのに」という台詞があった)別に永久機関ならOKというわけではないが堀川弘通の映画は永久に大回転もしくは「あすなろ」を続けられるかもしれない……適当な感想だが。この「黒澤明になれなかった男」とか言われかねない、しかし間違いなく重要な名匠の(その堀川の助監督でもあった恩地日出夫は「俺は東宝で黒澤の次に偉い」と言っていたと映芸の追悼に書かれていたが)もう良いか悪いかさておき既に見始めたら嫌でも入り込まずにいられない力があって、あの夜の岡田茉莉子は霊だったのか、根岸明美とともに海辺で(しかも『アネット』の漂着した島のような夜の月明かりに照らされた海辺の空間がロングで映ってから、なぜかバックに海辺が合成されたカットになる)横になって波が繰り返される時間を過ごしたり、久我美子の窓のギシギシいう音がやまなかったり、なんか逆再生でもしたのかという音が聞こえてきたり、今まで顔と名前が一致してなかった高原駿雄の演じる竹内さんがよかったり(金子信雄のそばで猫のマネとかしている)、なにか愛着がわく作風の監督でもないのに常にそのリズムが凄いといえばいいのか(今まで見れたところだと最高のリズムが『おれについてこい!』か?)。オリンピックの記録でも作れるんじゃないか? 『激動の昭和史 軍閥』はどう解釈するか?