『すべての夜を思いだす』(清原惟)

予想していたよりもどう反応すればいいのか難しく、掴みどころがなく、壁のようなものを感じる。この捉えどころのなさを必要としている人々がいるのだろうと自分で言ってしまうと、本当にただ「興味が持てない」という酷な感想になってしまう。
すれ違う人たちがハローワークの受付、バスの運転手はじめ決して感じ良くもなく、違うルールやシステムの中で生きている異星人同士のような話が通じ合わない壁をヒロイン共々感じさせる。それが『ライク・サムワン・イン・ラブ』の奥野匡が出ていることでキアロスタミの映画と結び付けられるほど、日本の社会構造に触れていると断言できるほど力強くはない。(そこに居場所を求める人がいる空間であっても)話の合わない相手と会うというのは『わたしたちの家』の喫茶店の面接で会ったマスターらしき男性の感じの悪さにも通じていて、その状況は映画の外、たとえば映画館であったり上映スペースであったり、映画製作の段階でもありえることなのだろう。当然漠然と同じ時間を共有できているような間柄というものはあって、世代の近い女友達同士(ダイちゃんなる死んだ友人が間にいるが詳細は謎めいている)、または冒頭のバンド(誰?)やダンスグループ、ロングショットで並んでいく車の列を見ては、ここには映り込んだ人たちなりの時間が流れているのだが、そのやり方は少し単純すぎる気がする。今回は『わたしたちの家』とは異なりパラレルワールド(?)ではなく一つの町をあくまで舞台に三者行き交うが、バラバラな世界が点在している映画と解釈していくと、終盤のハッピーバースデー(予想した通り知人の名前を見つけた)に線香花火のバトンに至り、相互の時間は最終的には微妙にずれて、その視点が誰のものかをずらしながら共有させる。どの話したり踊ったりしている時よりも写真に映った顔が、異なる者の視点として可愛らしく見える。