昨日は月曜日休みだったが諸事情から職場に寄ったところ、いろいろあって、なんだか疲れてしまい、結局特に映画を見ないままキノコヤへ行き、日の沈む前に飲んだビール2杯だけで酔いが回って、すっかり使い物にならなくなる。そしてまた悪口でしかないつまらないことを言った。
『スティルウォーター』を自宅にて見る。評判がよいとなぜか義務感が発生して億劫になって見逃すというのをよくやるのだが(もう既に『わたしの話、部落の話』も見逃してドリフト映画も後回しだが)トム・マッカシーの映画も悪い癖で不精して後回しにし続けた。しかしこれは面白かった。数日後にキノコヤの黒川さんご夫妻がマルセイユへ旅立たれるわけだが、ちょうどこの映画もマルセイユが舞台で、これがマルセイユか……というか、そしてたしかにアメリカ人は帽子を被っているがフランス人は被っていなかったように思うが、この映画を見て、そんな話だけするのも微妙だが……。それにしても、この映画に流れる時間がある段階まで、やはり黒川さん的なものに近いと感じた。非常に殺伐としたものではあるのだが。親族の無実を証明するためにウロウロ過ごす日々についての映画という点で神代の『遠い明日』のことがよぎる。ラストが別に晴れ晴れしたものでもなく(あのタトゥーがグッとくるけれど)、むしろ話の通じないマルセイユで過ごした、疑似家族的な母娘との日々のほうが愛おしいというような感覚も近い。『クライマッチョ』ではイーストウッドがメキシコ人と言語の壁をこえていたけれど、マット・デイモンもフランス語をほぼ話せないまま、英語を話せないマヤとの関係もいいけれど、娘同士が初めて会ってフランス語が話せるの?となる時が特によかった。あのサッカーのクレイジーな光景から空気が一転するのも先が読めない。そもそもこの話を娘が主役ではなく(仮釈放で海に行くところもとても良かった)マット・デイモンにしているのが良かった。娘が言うように、マット・デイモンには何の期待もしてはいけないだろうし、その中に本当の変化というのがあるかはわからないけれど、強いて言うなら、娘からしたら何も変化していないはずの(変化を拒むような)光景が、なぜかマット・デイモンからは「何もかも違って見える」ということだった。たぶんマット・デイモンの映画にハズレなしだから見ればよかった、と思ったけれど『最後の決闘裁判』とか『ジェイソン・ボーン』とか全然どうでもよかったのを忘れていた。ともかくこれは見逃さなければよかった。