サッシャ・ギトリ特集②

サッシャ・ギトリ『王冠の真珠』これまで見たギトリの中では最もアラン・レネに近いかもしれない複雑さでもって、過去や異国を行き来していくわけだが、しかしレネならやらないような「それ本当に繋がってる?」と初っ端から言いたくなるヘンテコさ。ファーストカットがギトリ氏がドゥリュバック夫人に「このネタ新作になる!」と話し始める段階でのトラックインしながら「おー!」とギトリ氏の白々しい感嘆のアップで、それを聞くドゥリュバック夫人のフィルターかけて上目遣いの顔に切り返す時点で変。そこへ同じ時間、同じ驚きを語る他の二人(後半に合流)が一々重なるからさらにおかしい。カトリーヌを追いかけたりするくだりなど矢継ぎ早に飛ばしまくるようで要所要所は持続させるのもギトリ流か。終盤に三つの真珠の行方を語るくだりも一個目はなかなかドラマチックなのに対して、二個目三個目は途中から同じ空間を4回ほど繰り返して(やっぱり普通3回くらいだよねってところを4回ほどやる)時代をガンガン飛ばしていて、手抜きというか、非常に作家自身の生理と観客の忍耐が微妙にマッチしてるというか。だんだんと『サラゴサ写本』とまでは言わないが、どこまでやるのかと恐くなってくるあたり、ノンストップの喋りを聞くときと何ら変わりない。またはイオセリアーニは『群盗、第七章』やってたが、本作にも黒人の台詞に字幕はなし。ただこちらはもっと偏見明らかだが……。ある結婚の場面での船が画面奥、湾につく際の、枠の内側へ横切って入っていく場面の、何かしら経済的な工夫のありそうな撮り方でも、人物の微妙な多さが不思議とゴージャスだが奇妙。

サッシャ・ギトリ『彼らは9人の独身男だった』チラシの情報あわせて連想すると北野武龍三と七人の子分たち』とかシュミット『べレジーナ』のコブラたちとか(後半脱走後の各々訪問する際のリズムが漠然と似てる)、または『コッポラの胡蝶の夢』の終盤とか……それにしても9人は多すぎるのが納得の2時間超えだが、9人だか7人だかクロスしながらの展開に慣れてくると意外とあっという間に終わって驚いた。「畳み掛ける」とはよく言うが、文字通りの畳み掛ける映画かつ、オープニングタイトルのバックがあまりに旧フィルセンのアレすぎて、一度も出てないのに畳みたいな映画かと思う。しかし39年フランスにこの国外退去の政令というネタは凄くセンシティブな話なんだろうが。そしてギトリ氏の役も髪なんか染めて人買い商人みたいな屈指のいかがわしさ。または森崎東『ラブレター』のことなんかも義父を名乗ることになるおじさん見て思い出した。
それにしてもギトリ氏の映画はアラン・レネよりもウェルズやジェリー・ルイスのことだけでなくウィリアム・キャッスルを連想したくなる。ぜひヴェーラでウィリアム・キャッスル特集を!と期待したいが、ともかくギミックというよりか、映画からはみ出さんばかりの前のめりのせいといえばいいのか、またはそれが過ぎて微妙に蔑ろにされてたのか、そうでもないのか、日本からだとイマイチわからないあたりとか。

ついでに『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の感想。監督のこれまでの作品に全く惹かれるところがなくスルーしてきたのだが、期待値がほぼない状態で見たから、思ったほど悪くない(役者陣のおかげ?)。長いし、回りくどすぎるし、いろんな人がツッコミ入れていたけどウォン・カーウァイ風のくだりが雑な認識すぎないかとか、いろいろ文句はあるが。別に映画の可能性とかが広がることもない。三池崇史の『牛頭』にチワワをブンブン振り回して叩きつけたり、石橋蓮司が尻にお玉をぶっ刺したりしていたが、そういうシーンが出てきたので、たぶん真似したんじゃないか。あの醜いモザイクは本国だと無修正なのか? アライグマのくだりは何だったんだろうか。それがマルチバースのヘンテコさってことか? 「十徳ナイフのような男」の映画を撮っていた監督のはずだが、どちらかといえば要るんだか要らないんだかよくわからないものが詰め込まれたバッグみたいな映画。