日記ではないが雑感?

映画監督とは信用できない人かもしれないが、監督作品を見ながら信用をしたくなることはある。なぜ鈴木則文の映画は中島貞夫よりも、東映の名匠や奇才よりも信頼したくなるのか、というか『トラック野郎』シリーズの一作目を見直して思った。加藤泰マキノ雅弘よりも信用したくなる理由。増村、神代、森崎よりも信じたい、は言い過ぎなんだろうか。今現在の作家と比べても是枝裕和坂元裕二はもちろん、黒沢清阪本順治より信頼できる。湯原昌幸がトラックのマイクをオンにしたまま夏純子への告白を練習してしまったせいで食堂内に響き渡ってからの、雨の中の一連の場面を見ながら、ここには映画を見ている誰か一人の胸を打つところが必ずあると思う(いや、そうした見方は偏りがあると言われたら、それまでだが)。本当にトラックを運転できるかわからない菅原文太はじめ役者陣が車窓越しにハンドルを握るセットでの出来事と、その外では雨が降り、トラックには草木が打ちつけ、さらにトラックが走っていくショットが時に淀みなく、時に飛躍して結びつく(凄く強引に結び付けるがマルグリット・デュラスが『トラック』を撮った年って『トラック野郎』シリーズの時期と被ってた。本当にトラック運転できるか怪しい役者陣と、トラックの走るロングショットのモンタージュというか)。セットとロケのどちらが効率良しか、それをぶち破って、一本の筋が通されてるからなのか。誰も殺されず犯されない。または、やはり「文学性」のようなもの(田中小実昌だったりとか)が今のどの監督よりもあるからなのか。そんなことを今更リアルタイムに育ったわけでもない人間が書いても何もならないかもしれないが。

いろいろ仕事もそれ以外もあるので、大島渚特集にほとんど行かないと決めてしまったのだが、それでも大島渚賞という名前が脳裏をちらつく。だからこうして満たされない気分の夜遅くにウダウダ書いても後悔するだけかもしれないが。だがいまの「インディーズ」に大島渚の名前がつく賞を与えても、どうしてもピンと来ないのは、何らかのタブーに触れかねない題材を映画化するにあたって所詮「インディーズ」にはスキャンダルを呼ぶ力はないだろうし、もし右翼の街宣車を呼ぶ事態になっても、映画としての質、その題材に見合ったスタッフ・キャスト共に充実した質をもった作品にするには「個人プロ」という在り方が求められるのだろうが、今は相当難しいに違いない。ただ大島渚がスキャンダラスな題材の監督だったのかといえば、無論それだけの監督ではない(と思うからPFFから「大島渚賞」という、まあ、審査の歴史から考えたら無理筋ではないのだろうが)。『月夜釜合戦』について松村浩行監督の書いた批評に、たしか『太陽の墓場』を見直して、あえて詳細は伏せられているが、ドヤ街の人々が揃って動き出すという場面を指していたのではないかと想像するが、『月夜釜合戦』になくて『太陽の墓場』にあるのは身体の欠損というか、足を引き摺る人々の統一できない動きであって(この種の意識を発揮した撮影所時代の巨匠は伊藤大輔だろう)、それを無視して集団の力を見せることはできないだろう、という話だったんじゃないかと推測する(『アウトレイジ』の北村総一朗の会合に出席したヤクザたちだって、側近に肩を借りなければうまく歩けない杖を突いてやせ細った病み上がりらしき老いたヤクザはいた)。ただ松村監督は(その文章を部屋が散らかって探し出せないのだが)具体的には触れず、その若き(28歳!)の大島の鋭敏な感性、といった話をしていたと思う。つまり感性のない奴は罪深い、ということなんだろうが。

最近は市川段四郎猿之助一家心中(未遂)の話がワイドショーのせいで気になって仕方ない癖に女性セブンも買ってない(なんとなく松村監督は女性セブンを立ち読みしていると予想する)。はたしてこの題材を映画や小説や何かしら作品に繋げようとする行為がそれほど褒められたものにならない可能性も高いが、いろんな要素が妙な想像を掻き立てる話には違いなく(それゆえにジャニーズの問題を隠しかねないのだが)、いや本当は岸田政権とG7、広島での警察の蛮行という問題こそ覆い隠しているのだろうが。ともかくそういったスキャンダラスな要素と、映画としての質をもった監督(ただの暴露趣味には当然ならない)というのは今の日本にいるのか。

阪本順治について、『トカレフ』など予期せぬ出来事か、究極のご都合主義か判別つかない領域に踏み込んだ監督であるが、たとえば『人類資金』や『エルネスト』のような一種ロードムービーや、遡って『どついたるねん』からの脳と肉体の問題(それが『団地』なら想像力と現実とか)や、トクに『顔』に顕著な、容赦なく過去が噴出してくる中で現在をいかに生き延びるかといった話(『カメレオン』『行きずりの街』などフラッシュバックが印象深いアクション映画)が、映画の語りとしてはどのような手法を選ぶか逡巡せざるを得ないのだろうが、『一度も撃ってません』では明らかに一時間経たないと映画の全体像というか、どの方向へ行くのか読めないものでありながら、その結果に今一面白さを見いだせないと言われても仕方ないところがあった。個人的には『弟とアンドロイドと僕』ふくめ、その明らかにしようとしない一時間に面白さがあると見たいが、それでは映画としての落とし所がなぜか凡庸な図式や種明かしに陥って終わりかねない。『冬薔薇』では映画の向かう先が真木蔵人の息子が殺されるくだりあたりから鮮明になり、それがやはり一時間あたりのラインだが、同時に普通の映画なら150分かけてでも決着をつけそうな争いをあえて途絶させて100分ほどに落とし込んでいた。『せかいのおきく』はどうか。どこか『世界の記憶』的な題で、しかし黒沢清ほど国際映画祭の作家としては扱われない阪本順治は、どこかロッセリーニらネオレアリズモの作家(要は『神の道化師、フランチェスコ』)を意識したらしき短編連作のようなスタイルを今回は選ぶ。そう思うと、いつになく川の流れに沿った舞台が古めかしくも美しく見えてくる。はたして、その後はどうなるのか、終盤のウンコをぶつけるのがヤクザ相手は弱すぎないか、などなどやはり読めないが。

ある日、カウリスマキの名前を会話で出したのだが、なんだか軽はずみに名前を口にしてしまった気がして後悔する。
まあ、大半の映画監督はじめいろいろな人や作品の名前を口に出した時に、基本的には思い返せば後悔しかない。言わなければよかったのに書かなければよかったのに……。
罪滅ぼしにもならないだろうが『ハムレット・ゴーズ・ビジネス』を自宅で。最初のカットが犬。ハムレットがハムを食い、『裸の銃を持つ男3』並に頭部にラジオ突っ込まれた人がオロオロしながら死ぬ。そして妙な迫力ある幽霊描写。それ以外にも言うことはあるだろうが、カウリスマキの中でも最もとっつきにくい。だからこそ、やはりこれが最高なのか。

ついでに『カラマリ・ユニオン』も見る。どうせ『枯葉』公開のタイミングでカウリスマキどれほど映画館で見直すかどうかみたいなことになるのだろうが。
根本敬というより『サウスパーク』のケニー並に人外の扱いでもって逮捕されたり死んだり殺されたり連れさらわれたり強制退場していくサングラスのフランク達。何に追われるでもなく社会に居場所をなくしたからか減っていく様は『アウトレイジ』の後半とか、田中登の『好色五人女』とかに近いかもしれない。美容院で女達に刺殺されるくだりの理不尽さが、やはり即物的な怖さがある。

シネマヴェーラにてジョン・フォード『黒時計連隊』。
本当はもっとフォードばかり見ていたほうがいいのかもしれないが。
スコットランド≒キルト&バグパイプの隊列。フランスへの出征を前に、マクラグレンが故郷のインドへの極秘の任務を命じられる。隊の仲間にも、弟にも任務を告げられないまま、駅へ見送りに行くマクラグレン。息子を涙ながらに見送る老いた母もいれば、幼い娘もいて、画面外からも無数の兵を見送る声が上がる。その中で、本当は共に向かうはずだったマクラグレンも、ここでは弟や仲間を見送る側にいる(見送る女性たちの側にマクラグレンがいることを「ジョン・フォード論」にも出てきた中性的な存在としてキルトの扮装ふくめ見ることは安易に乗っかり過ぎか)。ただ見送られる兵の側には、独り身になる楽しみもあるさ、なんて飲んで笑ってる二人組とかもいて、このあたりの人物の彩りはさすがというか、いかにもというか。
マクラグレンは終始任務のために喧嘩を吹っかけられたり、敵役の女教祖と共にしたりと、それらは芝居ではあるものの、『男の敵』での陰惨な振る舞いを連想させる。女教祖との愛は潜入捜査的な緊張感など大して興味がなかったかのように、ただマーナ・ロイの美貌が印象深く、陰鬱な捕虜たちの奴隷同然の扱いや、女たちの戯れも目につくが、マクラグレンは彼女の水晶による魔術でもって弟や連隊の仲間たちが戦死する様を見ることになる。
階段にてマーナ・ロイは射殺され、登ってくる敵たちは機銃掃射され、激しい煙と影が眼前を覆う。
晦日の夜、フランスから帰還した連隊と、インドから帰還したマクラグレンは再会する。戦いの傷は『オールド・ラング・サイン』の歌い手からも隠せない。しかし実は生きていた弟が現れる。奇跡か、水晶が見せた幻か、または霊なのか、そうした疑問は不粋なだけか?