『あずきと雨』(監督:隈元博樹、脚本:久保寺晃一)

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『あずきと雨』(監督:隈元博樹、脚本:久保寺晃一)を見る。
『Sugar Baby』(監督・主演:隈元博樹)が里帰り映画なら、こちらは家出映画か。この男女が同じことを繰り返しているのか、彼がいよいよ来た終わりの予感に狂って、あずきバーへ逃れているのか、そうした読みは不要で、ただ彼のおかしさに笑うしかないのかはわからない。口には出せないが手紙に書かれる「どうにかならないんでしょうか」という言葉のはじまりを、あずきバーではなく彼女との関係もしくは人生のあらゆる局面と重ねる見方は容易いかもしれないが、面白みにも欠けるか。
映画を見る限りあずきバーはパルムのように齧っている間に溶けるものではなく、アイスを齧りながらの会話の間に溶けて床にこぼれるカットはないが「冷凍庫入れてないと溶けるんだね」と男が言うくらい、食べている間は硬くて溶けないんだろうか。途中、家にやってくる女の子が「冷蔵庫」という謎が観客の心に残る。
前の晩を朝まで過ごしたかもしれない男(「アゲオ」というノリのいい名前がついているらしいが劇中で呼ばれたかは思い出せない)から「なんかいいねスーツ」と文字通りアゲているようで得体の知れない適当さが奇妙だが、夜に職場で同僚の女と飲んでいる時の「お姉さん」と呼ばれる白シャツ姿には『しとやかな獣』の若尾文子じゃないが、それまで映画には見せなかった色気はある。ほとんどが限られた空間の(監督自身の部屋だという)舞台で、なんらかの底の抜けるような事態を予感させつつ(アイスは溶けて床を汚してしまうのだ)、しかしそこを踏みとどまりもする。

映画の序盤、手紙を書いている画面手前の男にピントが合い、画面奥にインしてきた家主である女にピントが合うか合わないか曖昧なのだが、直後に彼女のミディアムショットを挟んで、両者は互いに窓の外を見る流れとなって、両者の視線は同じ側へ向いているようなのだが、そのまま彼女のアップになって、彼の側へ目を向けるのだが、直後にアップになった彼は彼女と視線を結ばせるようで定まらず眼を逸らさせる。両者の視線が結ばれたのか、いないのか、曖昧に切り返す。
小津安二郎特集のせいか、そう見えなくもないところ多数ある映画というか、作家がどう思っていようが、見る側にとって「これもまた小津か」と付きまとうのかもしれない。「雨が降ったら家を出ていく」と男が言ったからか、言う前からか、男も女も空を見て、不動産屋に現れる女の子も「見晴らしのよい場所」を求めているのだが、しかし不動産屋のデスクから見る空には電線があって見晴らしはよくないというのも『小津安二郎』(平山周吉)の『麦秋』への指摘がよぎる。菅原一郎・東山千栄子夫妻の視線の先にあるという、一つの風船が飛んでいく空のカットもなく、画面いっぱいに小豆畑が見えるラストというわけでもないが。仕事のない男が子供と野球をするくだりに『大学は出たけれど』を連想することもできるかもしれないし、そこでの掛け合いをあえて途中からロングにしているのも可笑しいし、「もう遅いから帰ります」と言われているバックの日が暮れた空は大きく印象には残る。しかし空というか天というか、仰向けに寝る場面が少なくとも女性二人にはあるが、必然的にいつまでもそうしてはいられない。それは雨が降ったから解決するわけでもない。
クライマックスの雨は(恵みの雨なのか)窓越しに男女の側へ反射してきて(それがどのように見えるかはあえて書かないが)、過去に『あの残像を求めて』という名前の映画を監督したことと関連付けられるかもしれない(ただ雨自体の撮り方はやや不満はあるが、ないものねだりか)。最後のヒロインの帰宅前に(あのように天気の中を自転車で走るのではなく)、もう消えているかもしれない相手のことを言葉にするくだりがあるかもしれないと思いつつ(そこでは別のドラマというかエモーションが求められるか)、劇中でほとんどこの場にいない相手のことや、両親や上京理由や、自分や誰かの過去について語ろうとしない姿勢は最後まで貫かれる(雨の降る直前の「いつか」という言葉の出てくる「その頃には私はいないかも」というやり取りにはグッとくる)。この人たちは終わりかけのようで同じことを何日も続けているのかと思いきや、そもそも男は溶けて消える夢のように存在さえしてなかったかもしれないが、とはいえ女の妄想というわけでもなく、つまりは霊なのか(当然飛躍した解釈で、なぜなら自分には男女の機微を語れる経験が欠けているため、こうしたことは全部映画でしか見たことがなく正直よくわからない)。勝手に男を失業中の脚本家と思い込んでいたが、それはノア・バームバックの映画と脳内で結びつけたからか。そうした過去がはっきりしないからこそ、今の「どうにかならないんでしょうか」の走り書きが真剣にも見える。