『コカイン・ベア』『絶望の日』『女体』『蕨野行』『淑女と髭』『突貫小僧』『東京の合唱』『ザ・キラー』『ドミノ』『烈火青春』

仕事終わりに終電前の新宿でエリザベス・バンクス『コカイン・ベア』を見る。昨今話題のクマさん出没だけでなく、微妙に埼玉県自民党県議団による虐待禁止条例改正案を思い出す話も出てきた。クマに罪はないんやで、という映画であり、罪のない人も死にます、という映画でもあり、微妙に善悪の境界が曖昧で最後の生還者も一部予想を裏切る。誰が主役だかよくわからないという映画も久々に見たかもしれないが、単にクマを中心にした群像劇といえばいいだけだが。『血みどろの入江』の金目当ての大人たちがタコさんの餌食になったような光景や、漠然と『殺人捜査線』の粉を日本人形に!という展開を連想しなくもない、コカインをクマが食った!という話で、中盤から悪趣味に拍車がかかり、かわいい顔してキレた全編CGだろうクマが人知を超えたスピードとパワーを発揮して人間を肉塊にするのだが、その切断面やら切り株やらよくできている。特にレンジャーのキレたおばさんと不良たちだけでなく、かけつけた救急隊まで皆殺しの展開は悪趣味かつカラッと笑えると言うには惨い。クマが何をそこまで命を狙うのか不明だからか。ついでにクマは無敵なので最後まで特段ピンチの印象もなく、子供を守る母親だとも明かされ(ついでに子グマもラリってるのがトラウマ)、要するにクマに罪はない!という具合で締める。何をもって酷いことやってるんだかよくわからないが『テリファー』といい、特に音楽面でかつての映画たちを意識させても、ほとんど意図的に冒涜する勢いで心無いものに仕立て上げる。

 

某日某所にてオリヴェイラ『絶望の日』を、ありがたいことに日本語字幕付きで見る。
赤坂さんの批評などで、いつかは見なくてはと思いつつ、特に自宅で見るなどしていなかったため初見。
決して長くはない映画だが、いつ始まるのかというドキドキと緊張が続く。カミーロ・カステロ・ブランコの肖像画がしばし映ったかと思うと、再度クレジットが続く。やがて手紙を書く手が映り、走行中の馬車の車輪が映り、さらにモノローグが続く。そして女性の後頭部を見るだけで色っぽいと思う。修練が足りず、何度も集中しなければと思うほど、気づけば長い瞬きをしてしまい、いろいろ見落としや頭に入り切らなかったもの多く悔しい。
故人の邸宅を見るという、オリヴェイラの死後に上映された『訪問、あるいは記憶、そして告白』(82年)に予想していたより近い印象を受ける。カミーロ・カステロ・ブランコの1890年の自死から一世紀近い時間が経っていて、しかし映画には映画自体の途切れない時間が構築されている。これは『好男好女』など時制や虚実を行き来しての演じることそのものの不可能性を問う試みと近いようで別物の印象になり、だから画の繋がりや試みの面でも、見返すたびに得るものがあるに違いない。
そしてラストの(最初の車輪に対する)森を仰ぎ見る前進撮影が凄く、暗転後の音楽がいつまでも続きそうで呆気なく断ち切れる。

 

国立映画アーカイブにて泉谷しげるから「人の心がない」と言われて「お前には心があるというのか」と返したらしい恩地日出夫『女体』見直し『蕨野行』もDVDはあるが何だかんだ初見。
やはり恩地は鬼じゃ!という結論。『蕨野行』の「身体が軽くなった!」というシーンは当然感動しつつヤバいものを見たと思うが、この世のものではない子供の霊体?との対話でついに始まる(これまで禁じてきたような)切り返しも忘れがたい。
堀川弘通の助監督だからかはわからないが凄まじい技巧というか、もう無償に近いんじゃないかという移動撮影あり、集中力もオリヴェイラと同じく要する(『蕨野行』も最初から言葉を追うのに聞き取りきれず)。『女体』の団令子が戦後すぐを振り返るだろう一言から瞬時にピカドンにつなげる凄まじい繋ぎによる導入部の鮮烈さも忘れがたい。それにしても執拗に雨を降らす執念は何だろうか。

 

小津安二郎『淑女と髭』『突貫小僧』。
『淑女と髭』は初見ではないはずだが、安物のブローチのくだりとか、雑な付け髭を毟り取りながら話すくだりとか、後半のタッチを全然覚えていず戸惑う。「治安維持法か警察と結婚します」なんて台詞あったっけ……となるくらい。
そして『突貫小僧』(パテベビー短縮版)もたいして覚えていなかった。青木富夫と坂本武のやり取りが途中までイマジナリーライン超えない切り返しという点さえ覚えていなかった(小津と言えば正面からの切り返しばかりではないというくらいの認識はある)。「カバの物真似ができる」とか「おじさんが先にやってよ」とか、そうした子供の勝手さに一方が振り回されるのを引きのワンカットでなく見せるなら、この角度からの切り返しという狙いを感じる角度というか(そういうのは『東京の合唱』冒頭の先生と生徒の間にもある)。あとよく出てくる写真のせいで和製ホームアローンみたいな記憶の捏造がされてしまうけれど、そういう映画でもない。
『突貫小僧』(マーヴェルグラフ版)。14分短縮版が21分になったのだから、物語が変わるというほどではないが、別の映画になった印象は当然受ける。「人さらいの出そうな」という字幕が消えていたが、解説(築山秀夫)によれば現存していない冒頭に主婦たちが話している台詞らしい。終盤の斎藤達雄が青木富夫を置いて逃げようとするも回り込まれていたくだりでは、逆に「お家に帰りたくなくなったな」という字幕が加わっていて、それにも不意をつかれる(やはり彼の家の様子は映らない)。例のチラシにもある見慣れないカットは川辺ではなく噴水だったが、それでも水辺が映ったような質感の変わる驚きはやはりある(あの警察との切り返しのあるベンチのやり取りの前に挟まれているのだが、あのベンチの向かいにありそうな光景に見えない)。斎藤達雄がでんでん虫の真似をして通りがかった女性に笑われるくだりも、先に様子を怪訝な顔をして見ている女性のショットがあったり、斎藤達雄の移動ショットの後で手元の菓子に食いついている青木富夫が出てきたり、坂本武とのやり取りの合間に青木富夫が菓子を食うショットの奥で斎藤達雄が布団を敷いている様子が映ったり、お酒の瓶が倒れてこぼれる前に水鉄砲のくだりが長くなっただけでも前後の繋がりが見えて一連の時間が続くように感じる。

『東京の合唱』は序盤の先生と生徒のやり取りを終えてから、風が吹く樹々を見上げて時間が一気に飛ぶのだが、この風が終盤になって再度吹いているカットが入る。そこでは樹々のカットの次に、反対側を向くと、そこでは洗濯物が干されていて、風に吹かれている(序盤では制服が干されていたが、ここでは子供たちの服になる)。どういう家の構図で、どういう切り返しなのか当然不自然ではあるのだが、先生もあの頃のような元気さはなくなったな、といった話の後に風の吹きやんだ洗濯物の様子が入ると、これまた不思議と胸を打つ。そして前半、割れたレコードに対する、カレーライスのために盛られた白米の皿に、たくさんの帽子と円形がたくさん映る。柳下美恵さんによる伴奏ふくめ、最後の合唱も感動。

ところで、やはり『静かに燃えて』(小林豊規)のグッとくるのは、それが2019年には完成していたかもしれないのに、2022年を完成した年にしていて、その時間の停まった感覚の中には、結局自分の映画が時代を超えるためにはどうするかという無意識が編集作業の中で働いたんじゃないか。この時空を超える映画の中で「まるで見てきたかのように」見てないはずのことを喋っているように見える人物を登場させ、しかし映画の出来事を最初から最後まで見ているはずの作り手と観客さえ、そのいくつかは主観による空想の可能性もあるなど飛躍した解釈を許容する危うい繋ぎは、その4~5年の試行錯誤を経たからじゃないかとは勘繰ってしまう(その種の逡巡を感じさせることは他の日本映画からはほぼ期待できない)。
小津安二郎の映画での道を踏み外したとされる女が何らかの出会いにより、別の道を歩もうとするという印象はどうしても今になって見ると微妙なんじゃないかと頭をよぎるが、それでも「戦後がなければ小津は忘れられていた」とまで言う気はないが。たとえば渋谷実の研究本で、37年の『淑女は何を忘れたか』と『奥様に知らすべからず』を比べて渋谷に価値を見出すというのはちょっと単純じゃないかと思うし、やはり『父ありき』を見直すべきなんだろうが、仕事のせいで行けず。

 

あとはアイラ・サックスの『パッセージ』は見た(最後のアイラ―と自転車がよかった)が、東京国際映画祭にて空いてる時間に見たいものは満席なので、結局デヴィッド・フィンチャー『ザ・キラー』。上映素材のせいか、微妙に安っぽく見えた気もするが。でも特に不満はない……期待値上げすぎたかもしれないが。
殺し屋映画。もちろん『イコライザー』とか『ジョン・ウィック』とかあるけど、どこから始まったといえるほどではないがドン・シーゲル、67年~68年の『殺しの烙印』『ある殺し屋』『ポイント・ブランク』『狙撃』、いろいろあるが(見落としがたくさんあるに違いないが)ともかくジャームッシュに至るまでの流れ以来久々といえば(というかアレを丁寧に追ったリメイクぽい)、そうに決まってるのだが。近作なら『一度も撃ってません』とか『モンタナの目撃者』とか、何なら『黒衣の刺客』か。相棒ではなく妻というのは珍しい。「綿棒」には笑った。あくまで時計というより自分の心拍数を見るのが結構いい。やっぱスミスは仕事に集中するには向いてないんじゃないかと思うが、ズレた感じが悪くないというか(モノローグと出来事の微妙なズレとも通じる)、基本はいつもの音楽が流れる。
襲撃された邸宅へ向かい走るカットでの横移動に、やや『殺しの烙印』のトーチカにこもるno.2との対決を思い出すが(この時点で奥さんの存在がわからないのもいい)、実際に火炎瓶使うのはもっと後だったりする。ここで追いかけてくる犬も飼い主と違って殺されなくてよかったですね…ってジョン・ウィックの逆か。

 

仕事終わりの終電前に東京国際映画祭は間に合わないからロバート・ロドリゲスの『ドミノ』。
実はあまり熱心に映画を見るオタクでもなくロバート・ロドリゲスって最も興味をもてない監督の一人になってしまい悉く後回しにしてきたが、やはりいつかは見ないといけないのかもしれない。それでもようやく『ドミノ』は何となく予告から見ようかと思った。
ロバート・ロドリゲスの催眠!』という感じだった。
どっかで見たことある感じの映画だが(まあ大半の映画は催眠じゃなくても既視感あるけど微妙に違う何かなのかもしれないが)悪くないかと思いつつ、それらがメキシカンになるほどインチキ臭くて、やっぱ愛嬌みたいなのもあって悪くないかなとなるが(本当にどうしてこんな2番3番煎じくらいのチャンポン映画をそれなりのモノっぽく振る舞えるのか図々しい)、まあ、見ていて飽きはしない。さすがだ。でも代わりにムカついてくる。
一番面白いのは、半端に操られたベン・アフレックがハサミをどうするか、結構心配しながら見ていたらベッドインへ暗転という(しかも上品というより古臭いのだが)意外というか呆気なさすぎるというか。
しかし、まあまあかな、という映画のはずが、アンタらはまだそんなことやってるのかよと。まだマンゴールドの中でも評判悪い『アイデンティティー』のジョン・キューザックの目覚める顔のほうが、なんとなく良かったベン・アフレックより確実に心動かされる演技を引き出してる。
最終的には娘が最強という話。やはり何のためにこんな面倒やってるのか釈然としないが(ゴキブリ踏むのとか何なんだ)、まあ面白ければいいやというのを通り越して、最後の「自由だ」に思いっきり白ける。
しかし映画を見るのも、暇さえあればスマホばっか見るのも半端な催眠に変わりなく、その都度、穴の存在に気づいて目覚めるの繰り返しかもしれない。でもこれで「自由よ」は無いかなあ。

 

いろいろ見逃し悔しく、『烈火青春』嫌いじゃないけど別に良くもないし……と書いたらツッコミを喰らう。
そう書くこっちが悪いのだが。
そりゃ信頼している方々が見た『犯罪者たち』もワイズマンもリュウ・ジャインも、そのほか話題の諸々を見逃して、レスリー・チャン×パトリック・タムだけ見て「これで満足」となれるほど達観できてもいない。そういう悔しさが誰にも伝わらず、ただ馬鹿にされるだけ。もっと未公開映画クラスタみたく気合を入れてスケジュールあけられる人生を選ばなければと反省した。
とにかく映画わかってない認定をまた喰らってしまったのが悔しい。
レスリー・チャンのシンナー吸引未遂場面が「液体が多くないか?」とシンナー経験者でもないのに思って、そうしたら遠藤さんが同様のことを突っ込んでいたので、『コカイン・ベア』の子供が「僕はクラスのヤバい奴とコカインやったことあるんだぜ」と大匙一杯コカイン食おうとしてムセて「まずい、質のわるいやつだ!」と知った風なことを言うシーンを思い出して、レスリー・チャンはシンナー経験者なわけがないと好感度アップかもしれない(名古屋では80缶以上でしたっけ?シンナーやって脳の縮んだ若者が本当にいたんでしょうか)。そんなことはどうでもいいとして、レスリー・チャンは二階から落ちる羽目になって、後景で足をひきずってるシーンとか、直後に模型ではない船が海をいくのを見ている時のよろこびとか、たしかにいい。
最後のとんでもない香港映画魂というか東京から見たら国辱映画というか(シンスケとか赤軍とか何だよ)、裏返った水色のボートから見事に放たれるアレを見て「これが映画だ!」「この混沌こそ映画だ!」と感動すればいいのか、無惨に日本刀で殺される男女に対し「えー……」となるかのキワどいラインでも生き延びるレスリー・チャンとか見どころはあるが、個人的にはやはりパット・ハーにやられた。
レスリー・チャンのシンナーを風呂に捨てて火をつけるところ、プールの監視員の席に座っているところに回り込む撮り方、いつの間にか車の上に(本当に車の上に)スカート脱いで立っているところ、そして取り巻きの声援(それに押されるレスリー・チャンも可愛い)。ついにベッドシーンになるかと観客としてもワクワクしたところで諸々の邪魔の入るところも楽しいのだが、結局麻雀はじめたおじさんたちの背景を通り抜けて、夜のバス停で待つロングショット(まさに青春)、「うちに来ていいよ」というくだり(こんな青春いきたかった)、そしてバスの二階で一人乗り合わせたおじさん、途中に乗ってくるさらに青春な中高生カップル(パット・ハーが一旦下りて、あの制服姿の彼氏彼女の去り際を見てから、あえてアップなど挟まず上に戻るというのも何だかいい)、そんな通りすがりの人物を尻目に、夜風に吹かれながら席の移動を繰り返すくだりが続いて、彼女の家に着く前に駅弁になる(そして感動的な、プールでのパンツという伏線の回収を、つい先だって誕生日を迎えたマキノ雅弘の『決闘高田馬場』かのように、とかは言い過ぎだとしても、二回三回繰り返す)、運転手さんには迷惑だろうが、この長い一連が本当に素晴らしいシーンとして語り草になっているらしいのには納得というか、ただただ見入った。
まあ、自分には映画の良し悪しを判断する能力はないし、映画のこともよくわからない。特に誰が良いという情報だけでなく、この限られたスケジュールで挑む映画祭でいろいろ見ることこそ醍醐味であって、日々ダラダラ見るのなんか糞みたいなことでしかないのだろう。映画を多少は見てきたはずが、結局自分は単に見逃してきたとしか言いようのないし、そうしているうちにますます現実から置き去りにされる。