『静かに燃えて』

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小林豊規監督『静かに燃えて』を下北沢トリウッドにて。
筒井武文氏による公式サイト掲載の「二度見るべき映画である」と煽動する評が間違いないことを証明するように、無料配布されたパンフ掲載の批評には見終えた方を想定して別の内容が書かれている。一つ一つが間違いのない画面のなかで、女二人と向かい合って男一人がテーブルに座った画の遠近感を狂わす構図(それはややヒロイン二人と関わる距離を誤っているような女性の訪問客が口にする「セザンヌ」のトランプをする画のことを連想)や、終盤に現れる一升瓶ワインといった装置ではなく、あえて冒頭、既に壁面に飾られた絵画たちから読み取れるものだとわかる。
まるで絵を描くことが時間の流れを停止させてしまいたい欲望かのように、序盤から物思いに耽るのか動きを止める女、巻き戻る時制(しかし容赦なく先に進み続ける時間)と、操作とつなぎ間違いによる逸品であることが見終えて反芻するほど理解し味わい深くなる。一部彼女たちの関係がどこまで行ったのか物語の解釈としてどちらともとれる編集をされた箇所があり、その謎は終盤の台詞で説明しすぎていないか不安なほど二人だけのはずの出来事を見てきたかのように語る人々の対話(このつなぎ間違いの巧みさ)を経ても解消されないまま、むしろより謎めいたまま残る。それはアヴァンタイトルでの衝突の時点でヒロイン二人が何を思うかの奥底までは最後まで観客が本当に理解できたかもわからなくさせ、またある場面での夢を見たのか否か、ただ一人になって目を覚ましたヒロインに対する、やや引いた距離と光の射し方、彼女の沈黙、肌へ向けた撮影の繊細さがより際立つ(さらに最後の涙なしに見れない切り返し!)。
本作のヒロイン二人への視線に『燃ゆる女の肖像』のような見る・見られる関係の揺るぎなさへの自信はなく、むしろその揺らぎについての映画かもしれない。主観ショットかと思いきや誰の視点でもないカットであったり、解釈を間違うことと、その間違いへの気づきに誘導する。あの会場にて笑い声のあがる場面の心無い印象同様に、この映画自体が何かを間違ってしまうのではという危うさがある。終盤のオーバーラップが、あの酒を飲んで交わした対話さえヒロインの催眠で見た空想の一つではと飛躍した解釈も用意してくれる。町中に響く音が、ある場面では人物たちと同じ時間・暮らしとともに流れているようで、別の場面では感情から切り離される。
映画は誰の主観でもない。無機質なものとしての「手」を映すショットの後に、足に向けられた性的な眼差しを意味するカットが入り込み、それがある男の主観だからではなく、映るものが人工物から生身へ変化したからに違いない。映画が「かつて哲学者が言った」言葉として、人と人は決してわかりあえないと言うように、映画と観客もわかりあえないのかもしれないが、それでも互いの発したエモーションが存在しているということか。決して早いと言えない監督デビュー作が2018年に撮られ、さらに公開までには5年費やしたことが映画の内と外の間にも時の流れを生じさせているようで、それがまた本作に相応しい。