『ラジオ下神白』

山形に行けなかったので小森はるか『ラジオ下神白』を見に東工大へ。山形の続きみたいな人がちらほらの会場だった。途中から入場する人が多かったり、肝心の場面で画面が暗くなったり(明らかに映写トラブル、主催者からは上映後に一言くらいあってもよくないかと少し思ったが)、後ろで豪快に転倒した人がいたり、大学上映ならではの環境だったが、全然楽しんで見れた。たとえばインスタレーションでの特に音声が聞き取りにくい環境だろうが、映像自体がささやき声のようなものとして見れてしまう作家性の一つなのか(字幕付きだからか)。ヤクザ同然と評判のJASRACのせいか(音楽教室からふんだくる話とか思い出す)劇場公開が困難という噂だが、この映画自体が旅人と化しているんだろうか。権利がどうの言うが、この映画の歌い手たちは自らの歌をうたっていると誰もが思うに違いない。
これまでの陸前高田の不思議な空間ではなく、福島県いわき市の団地が舞台になる。その幕開けのように走ってくるバス。最初の3カットに映画の神が宿るとか何とか言われるが、本当に最初の3カットを見ながら、バスから降りてきた老婆たちがワイワイ始める歌謡曲映画(バスガイドは倍賞美津子?)なんて想像させて、その後の田んぼに、電信柱にとまる鳥たちだったか、そんなカットの順番でよかったのか詳しく覚えていないが、画面に重なる老婆の語る声を聞きながら、あのバスはどこに着いて誰が降りてくるのだろうかと静かに興奮しながら、しかし彼女の話を聞き、字幕で追う。画面はバスを追わず、外景から屋内へ移り、このスタジオらしき空間での公開収録なのか、この場に映らない老婆の歌声と話が続く。聞き手らしき若い人々は画面に姿を見せているが、声は異なる時間に収録された老婆へのインタビューの音源らしく、東北の震災どころか戦時中を振り返る歌の思い出をスタジオに集う聴衆とともに聞くことになる。これはタイトル前の出来事である。淀みなく賑やかな(それでいて静けさもある)本作へ続く見事な導入部でありながら、振り返ると別の映画のようでもある。それでも基本的にはスタジオと現場の行き来という筋道の本作に相応しいか。歌唱中の音声がその場の録音からラジオ放送にシフトして、音と画のズレていくような感覚になる編集がなされ、それがまるで同時録音でも音と画が同機できなかった映像を連想させつつ、そのズレが人々の住まいとラジオの時間を重ね合わせ、本作のリズムを途切れさせない。

ブラジル帰りだという、ちょっと左卜全に見えなくもないシルエットで煙草(キセル?)を吹かしながら、しかし正面まわると驚きの眉毛をしていて、老人ホームに入るという方のポルトガル語の呟きと共に映る、水平線と船の光景がさらに遠くのまだ見ぬ地へ思いを馳せる。濱口竜介監督も話していたが、これは別れの言葉のバリエーションの映画でもあって、さようならかもしれないし、また会おうでもあり、老境についての映画でありながら青春映画にも見える。『君といつまでも』を歌えると聞いた時点から、会長さんの声が既に加山雄三のトーンになるのもクライマックスを待ち遠しくさせる。時間の流れも早すぎると思わせず丁度よく、お見送りの際に「雨が降るっていったけどまだ降らないね」と話しかけられてから、夜の運転中に「皆もう寝てるかな」なんてやり取りの合間に雨が降っていることに気づくのに、不思議な味がある。

終わりよければすべてよしというか、ラストのミュージックビデオも上手い。エンディングとして実に見事で、登場してきた歌い手一人一人がワンカットごとに中心に収まって、『スクール・オブ・ロック』のことさえ頭をよぎりながら、良い映画にフィクションもドキュメンタリーも関係ないというか、ドキュメンタリーの中でフィクションのように作り上げてみせる、その時のユーモアが本当に愛おしい。スカイプ越しにわかりやすく両手をあげてビックリしてみせる、マスク越しで表情を見せきれないこその表現をする気配りとしてもグッとくるが、ラスト直前に見せてくれる芝居っけのある仕草としても微笑ましい。
ただ映画が終わりを迎えるとわかって、ようやくこの映画がコロナ禍以前に大半は撮られたものだというのに気づく(自分が鈍感なだけかもしれないが)。やはりたね屋の佐藤さんと同じく、ある幕間のような、宙ぶらりんになりかねない時間を生きる人々の記録なのかもしれないし、その時間の流れに浸るほど、今がもはやあまりに感染対策がだらしないからかもしれないが、たとえ震災のことは忘れないと思っても、何故か自分が今コロナ禍というか現状どこにいるのかさえ狂わされる。