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入江悠『シュシュシュの娘』見る。ミニシアターへ捧げるというか、長回しのない『勝手にしやがれ 英雄計画』? 違うか。なぜか、かつての挑戦的なテレビドラマを映画館で見ているような気になった。決して、これは映画じゃないとか、ミニシアターの役回りはテレビに流れない番組をかける場所なのかとか(まあ、頭をよぎりつづけてるが)、そこまでいうつもりはないが。移民排斥法案、公文書偽造、赤木さんの自殺、ちくわ(忍たま乱太郎?)。わかりやすすぎる。関東大震災に乗じた朝鮮人虐殺を語る老けメイクの父の死から曼珠沙華まで繋げるところなど、暗さと音への試みが面白かったり、いわゆる「ショットの映画」なんだろうけど、しかし入江悠の映画はやはりちっとも心に響かない。なぜか? 脚本? ドラマの薄さ? いくらでも志高く撮れそうな映画なのに、小器用な印象に終始する。近頃の話題を継ぎ接ぎしただけなんじゃないかと疑う。居酒屋で最後に殺されるのがお局というのも順序として微妙。これなら『東京クルド』や『東京自転車節』を見るべきか(見てないが)。『ザ・スーサイド・スクワッド』や『オールド』のような映画があることと比べて、我が国は惨めだ。

横浜聡子『いとみち』見る。『シュシュシュの娘』とも重なるところはあって興味深いというか(「シュ」と連呼するとか)。しかし今年入ってから日本映画の新作に関して特に引っかかるものはなかった気がするが(『ドライブ・マイ・カー』とか、見逃した瀬々敬久監督のとかあるが)これは何だか非常に良くて、なぜか宇田川町のユーロに帰ってきたような気分になった。津軽弁が無字幕の映画を見ているようだ、という評判は聞いてきた。そこまで難解ではなく、むしろこれはアテネフランセ堀禎一と現代映画の特集にて見てきたコミュニティに近く(冒頭の授業にて駒井蓮の発声はクラシックのようだと、ただしバッハでなくモーツァルトだと言われる)、一方「見様見真似」「複製が世界を救う」と人物たちが(主題の説明として、ややしつこいくらい)語り、授業や見学を通して歴史が、娘の死が、空襲の記憶が語られるように、「話を聞く」「語り継ぐ」ことでもある。もはや実体験の歴史を持つ自覚のない現在でも、見様見真似でもいいから引き継ぐ。異なる二人が並んでワンカットに収まるように、イロモノみたいなメイドカフェも「絆」という言葉に反して、むしろぎこちなく存在する感じが面白く(自宅にてメイドの仕草をやってみせる箇所がいい)、そのままなくてはならない場所として収まっていくのが愛おしい。それにしても黒川芽以に髪をとかしてもらう駒井蓮の泣き顔。母と重なる役割だとわかってはいても、この顔を引き出す、カットを割らないのは素晴らしい。
縁のある木村文洋監督『へばの』(長谷川等さんが良いのだが、西山真来さんも大事な役で出てきてもよかったのに)だけでなく、あの玄関先の賑やかさには『六ケ所人間記』のことがよぎりもした。

『シュシュシュの娘』と『いとみち』どちらもに出てくる「シュ」の連呼は、『いとみち』においては「御主人様」の「主」であり、遠藤ミチロウが「イスト」と詞にした「主義者」の「主」を指す。二作とも「差別主義」という言葉は出てくるが『シュシュシュ』が人種差別なら『いとみち』は職業差別を指す。この発声しづらい「シュ」の含まれる主義者も御主人様も、自らを名乗る言葉ではない。相手を指す言葉になる。かつて鈴木則文中島貞夫による『どえらい奴』に、霊柩車の宣伝を罰当たりとした人々から「シュギシャに違いねえ!」と罵られるが、この「主義者」とはアカのことだろう。だから何だと、相変わらず結論は保留のまま書いてしまったが、それは「主体性」をめぐる話に変わるのか。