『夢の涯てまで』(構成・編集・監督:草野なつか)

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「私は広島に行ったが、何も見えなかった」字を書く手の速度に宿る逡巡を読み取るものかはさておき、「君は」ではなく「私は」であったと思う。映画は「広島」が主題として見られるだろうことから逃れようとはせず、そして広島の名は冒頭に綴られながら、あえて広島に限らない地名が複数出てくる。仙台名物「萩の月」、イタリア美術展覧会のチケットが栞として出てきたり、アイスランドの話も出てくる。室内でフラットに響く男性の声が、ある日付に起きた時代も場所も異なる出来事を述べ続けている。助監督としてもクレジットされる住本尚子が「すみちゃん」として現れ、そこでの珈琲の湯気を見ながら、明確に冬の映画と印象付けられ、窓を跨いで外気が画面に映り込むようなコントロールされきってない魅力。物語のレベルではほぼ通りすがりのようで、多くの情報はなく、ただそこにいるだけ。それは主演のさいとうよしみ・倉谷卓にしても変わらない。消えたのではなく、ただアングルが変わった途端、まだそこにいるということで「霊」と意識させる演出にハッとさせられるようで、それほど唐突な驚きというには招かれた友人と彼が同一フレームに収まっているためか、不思議と地続きの時間にいる。駅を降りて夜道を歩くシーンを挟んで、舞台は古本屋へ移る。そこでの店主と彼女のやり取りは長回しで撮られて、広島在住の作家の書籍と、彼女にとっての一年が主題になるのだが、世間話と映画の本質を曖昧に行き来する時間であり、もっとわかりやすく言えばドキュメンタリーと芝居の合間であって、計算されすぎていず、かと言って自由すぎもしない、見ていて緊張感を覚えるわけでもないが、それにしては不意に長さを感じる。書店はこうした気がついたら時間が過ぎている場かもしれないが、それだけでもない。原民喜の名が出て、そういえば『妄想少女オタク系』に、夏祭りの日に浴衣姿の女の子たちがわざわざ家まで遊びに誘いに来てくれたのに、男の子は原民喜の「夏の花」を読んでいたからか、「今日はいいや」と何となく断ってしまう、あくまで微笑ましくも忘れがたいくだりがあったのを思い出す。原民喜だけではないかもしれないが、既にその名が、存在が、映画がどれだけフィクションだろうか出てきた途端、影響を与える。原民喜は本作にも影響を与えるだろう。さいとうよしみは倉谷卓に部屋で語りかける。すわって動いていない倉谷卓にピントがあって、今から座って話し出すさいとうよしみにはピントが合うまでの時間がかかり、それが生きているということなのか。二人が切り返しになると、倉谷卓は口を半開きにして、そこにはゾンビらしきものがあるのだが、一方でまばたきを頻繁に繰り返し、その目元の動きを見ることで(草野なつか監督の映画の人物は『王国』でも「目」を見る必要がある)、今、相手の話を受ける時間を過ごしている人間の生を感じる。またスマホを手にして話していたさいとうよしみにカットバックすると、スマホから違う方へ視線をチラリと向けて、ちょっと笑っている。同じフレームに収まっていない男女が違う時間、違う生でありながら、しかし目はさいとうよしみも、おそらく倉谷卓を見ているし、見れているのだと思う。死者と同じ部屋で暮らすとは、そのようなことと想像させる。原民喜の詩集に手を取って、それが読むというよりも、その開き方がどこか魔術的というか勢いがあるのだが、そこで栞となったチケットが(つまりは以前の持ち主が)その頁へ彼女を止めるのであって、ここに短くても積もった時間が25分の短編であっても風のように吹いてきたかもしれない。そして原民喜の詩の朗読によって、それはおそらく名前だけでなく言葉の力に賭けられて、幽霊のいる部屋での時間に変化をもたらすことになる。誰もいない椅子、何かの受け答えをしている男の顔、その二つのどちらもが見ていて切ないのは映画に圧縮された時間が呼び込まれることと、それをあえて終わらせる外気の存在を感じ取るからだ。