サッシャ・ギトリ『トア』

劇中にてギトリは「政治には関心がない」「政治より演劇のほうが大事だ」と言うが、「政治も演劇も役者が交代していくのに変わりはない」と続き、「政治は演劇と同じだ」と話題に区切りをつける。作品全体の中で言えば脇道へ逸れたに等しいが、このような台詞を作中に盛り込むことの政治性を理解した上での脱線だろう。
『ある正直者の人生』冒頭の台詞ではないが、本作も倹約精神のためか、主な舞台のギトリ邸セットに扉の外は映されず、すべて居間で展開される。また自宅での出来事を元に書いた演劇の上演される舞台も同じセットに見えるが(セットの一人二役?)、その違いは「第四の壁」になる。
今作にギトリの前口上やモノローグはない。それでも冒頭、扉の外で行われる夫婦喧嘩は一切映されず音だけで、そこで使用人が聞きながら観客がいる前提の独り言を発していて、早くも本作の(というよりギトリの一貫した)「人は誰でも演じる」(扉の外で聞き耳を立てているときほど不意に向こうから呼ばれたら、わざとらしく離れから走ってきたかのように遅れたふりをする、使用人も演技はやめられない。政治≒演劇、人生≒演劇、つまり人生≒政治?)といったテーマは意識させられる。ギトリは扉を出入りするものの、おそらく扉の向こう側にいるはずの喧嘩相手のラナ・マルコーニは第一場面の間、一切姿を見せない。このセットに観客席はなく、八歩分の空間の先には壁があるのは切り返されてわかるが、同時にスタジオらしく天井は見えないくらい高い。電話はかければ大抵通じる。
映画の場面が、上演された舞台へ移るタイミングで、劇場入口のロケーションのカットが挟まれ、カーテンをめくってギトリが客席へ挨拶のために姿を見せる(このあたり本当にカラックスへのギトリの影響の大きさを知る)。そのセット上とは異なる画の外気に触れて見える生々しさに対して、客席にて初めて姿を現したラナ・マルコーニとの過剰なほどカットバックの続く応酬が始まる。彼女は演じる側としてではなく、観る側として出演し、見聞きしたことに対し芝居が進まないほど、何か言うのをやめられない。見るのが苦痛どころか、いつまでもこのままで構わないほど面白いが、そこにカサヴェテスや、はたまたウォーホル&モリセイの作品に通じる、失敗する上演の先行きの見えなさがある(ジャック・ロジエ『フィフィ・マルタンガル』の「冒険」?)。警察によってラナ・マルコーニが追い出されて、ギトリは本作で初めて舞台上の共演者に向けて囁き声を発する。そして自ら書いたはずの台詞を忘れ、プロンプターの声がどこから聞こえてくるかわからなくなるほど過剰に音に敏感になる(ラナ・マルコーニから呼び鈴と電話の混同を招くような野次を受けたのが引き金に違いない)。そして客席は足元から照らすライトにより暗く見えず、そこにラナの姿を探そうとしているかもしれない、舞台上にいても心ここに非ずなギトリに『あなたの目になりたい』の盲目を連想する。すべてが書かれたものなのに、一つ一つへの反応の繊細さが増していくようだ。
舞台上のギトリに向かって「事実に反する」(大意)という妻に対して、ギトリは「誰も事実を見ることはできないから想像力を用いる」と返す。ハプニングも、台詞を忘れることも、電話をかけたのに繋がらないことも(このあたり何だかんだ『バービー』が近いのか)、ギトリにとって窮地ではなく、どのような嵐があろうと最終的にはギトリの筋書き通りに事は運び、どんな人生のハプニングよりも、演じられることに関心がある(これがギトリによる「政治」?)。無論それがどこまでもこちらの先を行くギトリの驚異であって、数あるギトリの監督・主演作の中でも特に自作自演という点が前面化している一本かもしれない。