青石太郎 作品上映会(キノコヤにて)

青石太郎 映像作家 サイト

https://aoishitarou.com/

 

キノコヤへ青石太郎上映会を見に行く。

『時空は愛の跡』。158分。撮影期間はわずか5日間らしい。劇中で流れる時間も5日くらいか。
やや、というか失礼なくらい意識がボンヤリしたまま見てしまった箇所多く、基本的な理解が追いついていないかもしれないが。
窓から喫煙スペースが見える。台所ではたびたび監督自身はじめ人物が調理や洗い物をしている。そのすぐ手前のテーブルを囲んで、スタッフ・キャスト総じて五人までのやり取りが見れる。十冊ほどの本が床に置かれた個室もある。残る舞台は玄関か。また窓から見える景色、ここがスカイツリーの下であることも映される。そうした限定的な空間に加えて、終盤は山が出てくる。しかし山もまた、彼らの「山に行きたい」といった会話から不意にインサートされる形で最初に出てくる。終盤になって彼らが部屋を出て移動した先にある場所でもあるが、その屋内の空間とかなり離れているにも関わらず、唐突に接続された世界の一つかもしれない。カメラは登山中に三脚に置かれたまま、そこが山頂というわけでもないのだが、山にかかった雪の跡が見える場所をしばし映す。画面外では他の登山客とのすれ違いの挨拶も含めたと思われる声が聞こえる。そうした見晴らしが良いといっていいのかわからない光景と、彼らの家から見える外の景色、内側でのやり取りの間にあえて飛躍はない。彼ら彼女らは誰の所有しているカメラをメインに撮影するつもりなのか、しばし観客に伝わるかともかく、どうするつもりかはっきりしないやり取りを挟みながら、ようやく5人を写真に収めた後に、映画は再度彼らのいた部屋に戻される。そこには不在の室内がしばし映され、やがて開始地点の窓の外の喫煙中の光景に戻って、本作にある程度の円環構造が成り立ったかのように終わる。
彼らの細かいやり取りはほぼ覚えられていないのだが、監督自身が演じる男は序盤に消え、彼の恋人らしき女性は途中から部屋に現れ、仮住まいになる。また室内は女子禁制らしく男二人しか住んでいないことになっており、うち一人の彼女もたまに酒など持って訪れる。しかし映画の撮影期間はおそらく5人全員揃っており、彼ら彼女ら以外はいないと思われる。そんな男女5人が窓の内と外を行き来しながら、たまに台本が外の喫煙所から内側へやってきて、それを読んだりする。一方でフィクションとしては扉が不意に映され、そこから人物が出入りしてくる。または窓からアパートの外へ出るルートもあるようだ。ここは一階なのか? 彼らはフィクションでは不在であっても、撮影期間は常に存在していた。またはフィクションの時間でも、姿は見えないが常に存在していた。それらが、あるクライマックスでの追いかけっこに至る。
同時に、本来あるべきスタッフの不在も印象付けられる。特に録音スタッフの不在からか、音は時折ほぼ聞こえないこともあれば、かろうじて聞こえることもあり、または聞こえても聞こえなくても差し障りはないやり取りもあるが、かなりの部分で字幕がある。字幕が、予め書かれた台本上のやり取りも、5人が撮影の合間に暮らすうちに交わされたやり取りも(しかしその時間はある程度は決められていたようだ)、どちらも写真アルバムがそうであるように、後に振り返られ整理されたものに見える。いや、これは記憶違いで台所や登山の会話は字幕もなかったか? ともかく字幕の存在は奇妙だ。余計な気遣いにも見えるし、同時にこれらが単に聞こえなくてもいい些末なものでもなく、それらを無視して通り過ぎていい態度の映画でもないということか。
いい加減なようで神経質。親密なようでよそよそしい。成功しているか失敗しているかわからない。時間が緩慢に過ぎているようで、むしろ止まっているような、いつ終わるともしれない苦痛がある。

『Lilypop』。または『百合ポップ』? 『交歓距離』同様のアフレコ映画。友人を撮った写真ほどの空気、登場人物たちの前に遅れてやってきた映画は、写真にあったかもしれない時間と距離を獲得できない。いや、遅れてきたのが原因なのか? 映画はヒロイン二人が夜道を散歩する時に、それを追跡する暗闇の中で、不意に彼女が転んだ拍子なのか、フラッシュが焚かれる。映画が終盤を迎えた時に、その時の前後に撮られていたかもしれない写真が見れる。写真の仲良さげな、楽し気な思い出とは何なのか。その瞬間だけはそうして振舞ってくれるのか。暗闇においては楽しい時間が流れていたのか? 彼女たちを主演に映画を撮りたいという男はシナリオに「霊感」の存在を記す。しかし彼女に霊感はない。彼に霊感はあるのか? 彼女がシナリオを読んで、一度は断った出演を引き受けてみるかとLINEをすると、彼からは何だかうまくいかないので仕切り直すから今回は無しといった返事が来る。こうしたタイミングを逃すという行為を登場人物たちがやらかす間に(これはどっちが悪いかと言えば男の方に問題があるように思うが、いずれにせようまくいかない気がしてならない)、映画は終わりを迎える。写真と映画のすれ違いなのか、その瞬間を切り取ったかのような感覚と、止まった時間の終わりの見えない苦痛の関係。アンダース・エドストロームのおそろしく長い映画を見逃したままだが、意外と近いのか?(知らんけど、というやつ)。