『小田香特集2020』

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『あの優しさへ』のサラエボにて、現地の人から案内された場から夕陽が見える。しかしショットは途切れて黒画面になり、撮影中にカメラの電源が切れてしまったことを振り返る作家自身の音声が続く。『阿賀に生きる』(佐藤真)の記念撮影時にフィルムがなくなって録音した音声が続く場面を思い出さなくもないが印象は全く異なる。その光景が小田香さんのために連れていかれた場所であり、その夕陽を最後まで見ることは「映画」の観客には許されない。
撮ることの「畏れ」が反映された瞬間かもしれない。その夕陽は「撮る」ものではなかった。「見る」ものだった。小田香監督の映画は旅した土地だろうが故郷だろうが撮れたものと撮れなかったもの(撮れるはずのないもの)の間に引き裂かれ続けることになる(それを小森はるかさんは『鉱』のパンフレットにて「潔さと繊細さ」と見事に言葉にした)。
撮れなかったものとは、おそらくカメラを向けるべきではなかった時間・空間のことだ。『ノイズが言うには』ではカメラを前に再演する母が撮られ、『あの優しさへ』では映るのを避けようとする母が撮られる。このふたつの母の映像に「撮る」「撮れない」の間の緊張が背景にあるのだろうか。『ノイズが言うには』の手紙を母が読みながら泣いてしまうショットが「撮る」ことを許された母が、実は撮ってはいけない母へと移行してしまっているかもしれない(そこでカメラの電源が切れることはなかった)。その揺らぎは、はっきり言って近寄りがたい。『ノイズが言うには』は電話をとろうとフレームインしてきた途端にピントのボケるカットがある。この「ボケる」瞬間が拙さや生々しさよりも、撮るものとの距離が狂ってしまう、この映画の特徴にも見える。
母の涙する背中や、母との対話にあまりにも焦点を集中させてはいけなかったが、それを止めることもできなかったというように、画面には机の反射が映る。この反射は『FLASH』の1ショット25分を予告する。車窓の映像が明滅し、画面には作家たちの「反射」した姿が映り込み、奥行きを狂わせて、そこへ作家たちの「美しい」という声が日本語字幕つきで映る。その映像の「近さ」を見続けるのは息苦しい。
『色彩論 序章』を撮り、『鉱』の闇の中から浮かび上がる汚れた顔の美しさを画に描く、単純な解釈だが「絵画」的な作家なのは間違いない。『呼応』の顔、羊毛の色を見るような近距離、人物や猫が点のように見える遠距離、こうしたショットに絵画のような、奥行きがほとんど失われる寸前の画面の魅力がある。『ひらいてつぼんで』の火やあやとりを目で追いたくなるような、線の動きへの強い関心にも惹かれる。同時に撮ること・撮れないことの亀裂は、そこに映っている人物たちの背景が語られない段階で生じているかもしれない。映像の強さと、その映像を用いて語ってしまうことへの恐怖(拒絶?)に引き裂かれているからか、『あの優しさへ』は一種「自分探し(をやめるまで)」のようで、あまりに観客として見るには距離が近すぎて居心地の悪さを覚える(『セノーテ』の75分を越える長編がないことと、語ることへの恐怖に感じるものも関係しているのだろうか)。
『鉱』には闇の奥にも何かは描かれているはずという驚きがあり、赤いリンゴと緑のペットボトルが見えると嬉しくなる。現場監督らのやり取りが聞こえてきて、向う側から予期せぬものが聞こえてくるかもしれないという興味がわく。そうした見る側の喜びに答えるような繊細さは『セノーテ』の水滴がぶつかることでの激しく強調される色彩や加工された「ノイズ」からは失われているかもしれない。一方、その『セノーテ』の「ノイズ」や『FLASH』の字幕は『鉱』『呼応』『風の教会』といった作品を見ただけでは想像できないという亀裂が、小田香という作家を印象付ける。