ダニエル・シュミットの『天使の影』をようやく見る。
トム・クルーズは大事なカットで本当に瞬きをしないという話を最近読んだが、映画を見ている側もどれくらい瞬きしないでいられるか。これがパソコンやスマホやゲームなら平気で何秒も瞬きせず、眼に大変悪いと聞く。その意味で映画が眼に優しいかはわからない。
ともかく『今宵かぎりは…』も『ラ・パロマ』も瞬きせずに見た映画というよりは、長い瞬きをしながら見た映画かもしれない。しかし瞬きをしている間に何も起こっていないわけがなく、確実に何かを見落としている。
それにしても『天使の影』は何度か、これは事故なんじゃないかと不安になる動きの止め方をする。そしてよく見ると俳優が動きを止めているだけということもあるのだが、ひどく時間の流れが狂わされる(最近だとポール・シュレイダーの『カード・カウンター』のエンドクレジットが一番近いか?)。冒頭の立ちんぼしている街娼たちの元へ男がインしてきて、一人、また一人と去っていく舞台のシチュエーションとしてもわかりやすい個所の最初で、あえてイングリッド・カーフェンの顔で画が止まり(これは彼女ではなく画が本当に止まっている)、音だけ続き、カットが変わると男が映るという編集をしている。実際に製作過程で何かあったのかもしれないが奇妙だ。あえてわかりづらく舞台的な時間の流れや空間を乱そうとしているのか、初見では意図は掴めない。
または猫。一人残され、清掃員のモップさえ踏んで客にしようとしたイングリッド・カーフェンが、本物の猫の首を絞めるような路上での掴み方をして、かなりヒヤヒヤするのだが、彼女が猫を川に落とすカット(その水の側から彼女を見上げた撮り方で、落とされた猫がどうなったかは見えないが画面外でポチャンと音がする)に続いて、ファスビンダーのいる家に彼女は帰ってくるが、その手にはどうやって拾ったのか猫の死骸がある。その猫の死骸がまた、麻酔で眠らされているようでもあり、死者として扱うのか布をかけたり、後の場面でファスビンダーが人形遊びのように使っている。この猫が実際に生きているのかはともかく、よく出来た作り物には見えないが、『ラ・パロマ』の彼女に繋げる発想が正しいかわからないが、猫好きにとって許しがたいというべきか。殴られ血まみれになって気絶したままのファスビンダーは命に別状はなくても「生きる気があるかはわからない」と言われることになる。
「金持ちユダヤ人」のリムジン(これが角を曲がって毎度やってくるのがカッコいい)に彼女は乗せられて、いつになくSF的にも聞こえる(それは『第三世代』『あやつり糸の世界』などファスビンダー作品でも聞こえたかもしれない)電子音の響く中、彼の話を聞き続ける。その彼女の眼はファスビンダーの映画で見るよりも眼に光が入っている気がする。後部の車窓には通りかかったらしき振り向く人物の姿が見えて、その少ない通行人以外は大して眼に入るものがないので、ますます現実味のない浮遊感がある。カットが変わると、まさに天使の羽をした子供が二人、なぜか棺を抱えていて、車とすれ違う。
それにしても、やはり自分が目を閉じて寝ていたのではないかというくらい、不意に映っているものが変わって状況が見えなくなる。車椅子の女と、鏡の前で化粧をしだす男(そこに坂東玉三郎のことが今ならどうしてもよぎる)。鏡を介して、男女が同じフレームに収まる画が印象に残る。しかし彼らが何なのか掴めずにいると、隣室への扉を開けることになり、そこは同じ屋敷内の空間と思えない捻じれがあるのだが、倉庫のような空間で音楽を鳴らしながらイングリッド・カーフェンと黒人の女が踊っている。両親と娘という関係だったのか? 『シナのルーレット』のある場面を連想させつつ、もっと別次元に繋げられたような飛躍がある。ただ大音量の響く中、扉の内側から両親が開けるショットを挟むあたり、唐突さとも違う。その不可解さはレストランにて歌う女装した男を「父親を紹介してやる」と「金持ちユダヤ人」からイングリッド・カーフェンが紹介されるなど、あまりに事態は奇妙なことが続く。
どこかその扉の存在は、開け閉めされて人が出入りすることで、夢と現実が、嘘と本当が、搾取と恋愛が、交互に姿を見せるといえばいいのか、ルビッチの映画で起きている事態に近いかもしれない。ルビッチの映画を初めて見たのがいつかはともかく、やはり何度か、自分が「大人」になれるまで繰り返すか、もしくは「大人」になれた時に見るべきなのか、その時の自分はひどく今以上に集中力が落ちているかもしれない。疲れているのか、部屋で見ると、どうにも瞬きをしているうちに字幕を読み飛ばし、そこでのやり取りの正確なところを全て脳内に入れられたかはわからないが、全てを記憶できたから理解したというわけでもない。どんな映画でも目を閉じているうちに、わからなくなってしまうが、その瞬きしてしまった量が多いものほど、いつか見直さなければという大きな存在として残るのだろうか。
長回しであって弛緩した時間が流れているようで、しかしトイレから貧乏なはずの家まで妙に奥行きが広く、天井の存在を意識させない空間、窓、それらを移動する撮影には目を離したくないが、同時に瞬きをすることは避けられず、またその夢のような感覚が瞬きを長いものにしてしまう作用があって、カットは割られていなくても、まるで観客が自ら黒画面を挟みながら見る感覚に陥らせる(少なくとも自分にとってはそうだ)。パーティを終えた後の廃墟のごときホールでは、床が散らかっている中を車椅子の母(?)が女装した父(?)に押されながら、カメラは後退していき、車椅子を段差のある空間で後輪に力をかけて上にあげたり(「彼女の足は立てる」なんて男は言うが、それは『セーラー服と機関銃』の三國連太郎みたいになれるということかと連想するが、相米の映画も瞬きしているうちに変わるなんて言うのは強引な結びつきか)、最終的には父の下したシャッターで画面は塞がれる。長い一つの後退移動をするワンカットの中に、あるハサミを入れるような音と動きが入る。イングリッド・カーフェンの横移動に対して、イルム・ヘルマンら街娼仲間が次々に声をかけるが、映されるのは移動するカーフェン以外は壁に身をもたれさせて喋っていて、カットを割らずに同じ女たちが代わる代わる姿を見せる。おそらく画面外で急いで動いている女たちがいるのを想像するとおかしいのだが、映画自体はマジックとして機能している。しかしここも実は自分が瞬きしている間に、カットを割ったのかもしれない。だいたいイングリッド・カーフェンの境遇が瞬く間に変わるのもおかしい。
礼拝堂での彼女はさらに現実離れしていて、その蠟燭に囲われた空間で背後から黒服の彼女へ向けて前進していく画も、一転して正面の彼女へ向けて前進していく画も、どちらもおよそ物語から逸脱して輝いている。そこに観客がいたかのように、いつの間にか礼拝堂には人がいる。そこの人々に声をかけていった彼女が、礼拝堂を出ると、外の壁面は白く、目には眩しく、また歩く彼女を追う横移動のカットへ続くと、やはり角からあのリムジンがやってくる。「金持ちユダヤ人」から言ったのか、彼女から言うのか忘れたが「役を下りるのか」という話になる。役の存在。映画が進むほどにどんどんと逸脱していく、ある舞台の中に社会の縮図があるようで、ひたすらカットが変わりシーンが変わり、どんどんと壁をすり抜けていくように浮遊する感覚が増していく(それは「天使」だからできるのか)。ファスビンダーの描く世の仕組みにおいて、シュミットが扉を開け閉め、出たり入ったりしているということでいいのか。こうしてさまよう感覚があるからこそ、つづくイングリッド・カーフェンの絞殺が、彼女が死ではなく、一時の退場という感覚になる。彼女はいずれ全てが終わった時に、いつか目を覚ますのだという夢を、観客に与えてくれる。この映画が終わるまでの間、仮に与えられた死者の役。絞められた彼女の身体の伸びる肉体が忘れがたく、そういえば序盤のファスビンダーからの「愛しているからこそ殴る」と言われる場でも、両者の肉体は絡み合うわけではなく、地べたに伸びるようというか。女に立ちんぼをさせるヒモ。しかし映画にはあえてセックスも暴力も意外なほど映されない。愛によって殴るという行為もほぼ生々しいものではない。嫉妬や歪んだ感情さえ霞む。
ここから愚かにも主役になったかのように勘違いをして犠牲となるウリ・ロメルの顛末を見ることになる。男女の愛の光景を見て、常に愛した方が負けるのだからと、「金持ちユダヤ人」の敗北を確信したにも関わらず、自分こそ警視総監らとグルの事態に突っ込んでいってしまう。世の転覆が可能になったかのように前面に出ようとするウリ・ロメルの存在が、たしかに『今宵かぎりは…』から『べレジーナ』まで通じる夢を追っていて(彼に夢を見させたのはイングリッド・カーフェンなのか)、憐れだが笑ってしまう。彼もまた猫のように、画面外で転落する。そして俯瞰ショットの中央近くにファスビンダーが生贄のように捧げられ、彼らの時間は停まったのか、ただそのように見えるのか、曖昧なままわずかに動く彼らを見下ろす。