『フィフィ・マルタンガル』

ジャック・ロジエ特集にて『フィフィ・マルタンガル』。日仏以来の再見。
今年に入って見たカジノの出てくる面白い映画は『クイーン・オブ・ダイヤモンド』『カード・カウンター』に続き3本目か。しかも三者どれも別々のアプローチだから印象深い。
冒頭のイヴ・アフォンゾが怪我して足を車から降ろせず苦しんでる間に、ぶつけた車が前方へ移動したのはもちろん、イヴのタクシーも運転手が前進させていて、でもイヴは相変わらず同じカットという変なつなぎだった気がするが、これは記憶違いかもしれない。あくまでタクシーは動いてなかったか。
でもそんな変なことが起きていてもおかしくない妙な映画。
モリエールの名前が出てきて、でもこれは舞台の演出家が「自作がモリエールの名を冠した賞に相応しいわけがないのに茶番もいいとこ」みたいな不機嫌から舞台はねじれる(ちなみに演出家は機嫌を損ねて降板した役者の代理をあっさり引き受けて壇上にいて、しかも乱入したイヴの引き起こした事態にたいして、それなりにアドリブでなんとかしようとする立場を引き受けていて、見ているこちらからしても演出家だった印象をほぼ失っているからおかしい)。別に本作とモリエールは関係ないだろうが、ソーントン・ワイルダーモリエールを改作した『結婚仲介人』とかあったと思い出すが、これも本作に関係はない。ただこうした改作というか、元ある何かがいじられ続ける時に、脚本があっても自由さが出てくるというか、それはたとえば監督本数自体はおなじくらい少ない沖島勲監督において、作家自身が喋って散歩するだけの『怒る西行』より、ある程度は脚本とおり撮られただろう他の作品のほうが自由さを、シナリオレベルではなく映画そのものも手にしていることを思い出したが、これも具体的な関係はない。
舞台の背景も基本は黒く(しかしセットのアートはジャングル風の画が描かれてる)、外に出る頃は夜になり、まるで黒地を背景に書かれた画のような一本。しかもこれから一発景気よく飲むかと思いきや、もう翌日の本番前のメイク室。ここの白くて鏡を前にした空間というのが不意を衝く。そして舞台のラスト。もっと惨憺たる事態になるかと思いきや、むちゃくちゃに結果オーライ。それでいて、あの省略された飲みの場で起きたこと以上の高揚ありそうなダンス。それに拍手したり、反応する爺さん婆さんメインのボランティア感ある客層の生々しさが、さらに映画の内と外を反転させる(パンフでも触れられていたがロジエの映画での扉の演出は興味深い)。
冒頭から何度も舞台の内と外の境界が揺らぎかけ(このあたり記憶しきれないくらい妙なジャンプカットの編集がまじって時間感覚も狂う)、ガストンがカジノで当てた金を持ってきた舞台に移って場面転換の間に「飯はまだか?」とかいう人がなぜかいたりするのをウロウロしておかしいのだが、それからなぜかガストンが舞台にいてサイレント映画調の空間で演じてるかと思いきや、実は愚痴ってるだけとか、映画の自由はロケだけじゃないんだ、書き割りの世界を肯定することにもあるんだとロジエを通して訴えてくる。
やはりオープニングとエンディングの歌からしていい。その歌がカジノでも流れて、ちょっと不自然だが、そこがまたちょっとグッとくる。だいたいカジノといい勝負事の勘が自分にはさっぱりなくSPORTもゲームもルールわからないのだが、そうしたわからない世界で何かやってるのを映画はどうして動物を放し飼いにできたかのように盛り上げられるのか。ただ適当なだけかもしれないが。しかしそれ以上に、やはり後にガストンを追って入った舞台(ここにたどり着くまでも嘘のように都合よく不自然だが、雨に振られながら繋いでる)にて、あの歌が演奏されているのが何だかやはり楽しげで、ここでの奏者たちが最終的に舞台に立たずして活躍することになる。