ロメロ『アミューズメント・パーク』。予告の段階から眠気に襲われ、そのまま前半集中できなかった。
結局ロメロの映画とは何か言葉にしにくい存在に変わりないまま(といいつつDOMMUNEは見逃している)。社会派であり、教訓はあり(『クリープショー』に近いか?)、限られた空間に籠っての寓話であり(「外側には何もない」)、最初と最後の白い空間が『ゾンビ』『死霊のえじき』の夢を思い出す。そして細かいカットの積み重ね。つまり、ロメロの映画を見た、ということだが。
ロメロの映画について語れることというのはどれくらいあるのかといえば、本が何冊も作られるくらいあるのだが、それでもロメロの映画ほど言葉にした途端、すり抜けていくものはない気もする。それはロメロ個人の不遇についての話か、ゾンビについての話か、個人の分裂についての話か、その映画の題材の話か、ロメロの映画の本質には誰も触れられないでいてほしいという願望に過ぎないかもしれないが。ロメロに限らず映画というものの本質には触れられないというようなもどかしさ。ただ別にロメロに関する文献を漁ったわけではない。僕個人が映画を見て何となく感想を書こうとした時に、ロメロの映画ほど、本当に自分はちゃんと向き合えたのかわからなくなってしまうものもない。『サバイバル・オブ・ザ・デッド』のような「透明さ」と人が言えそうな映画になりそうで、結局のところゾンビ映画に透明もクソもあるのか、という気にはなる。ただこの作家の妙な人物に空洞さを見出す性質と、ゾンビに対して向けられた愛着がマッチしていたのだろうが、それ以上考えようとすると頭痛がしてくる。

その原因は彼が「社会派」に留まらない「社会派アクション」の監督だから、つまりアクションは言葉にできないから、と思いついたことはある(そりゃアクション抜きに『ナイトライダーズ』も『ダークハーフ』も『モンキーシャイン』もレーザービームの『URAMI』もありえなかった気がするけれど、それを「アクション」で済ますのは、いわゆる「解像度の低い」話なんだろう)。そして彼がゾンビ映画の監督になったという星の巡り合わせ。ゾンビとアクション。これほど口にするほど虚しくなる即物的な?存在はないのか。でもそれは既に誰かが言ったことをファスビンダーの『悪魔のやから』じゃないが忘れてしまっているだけな気がする。