アベルフェラーラ『トマソ』を見る。このサイトで配信されているものを見たのは、ようやく三本目。ラドゥ・ジュデが終わったら解約かもしれない。
フェラーラの映画自体、上映やったりやらなかったりだから、でも『地球最後の日』や『ハニートラップ』(ドパルデュー主演の傑作)あたり一年に一本くらい見れた気がしたが。とはいえ『キング・オブ・ニューヨーク』とか『バッド・ルーテナント』とか特に繰り返し見ていないから漠然としか覚えていない。でも『パゾリーニ』くらいはBunkamuraでやってほしいのに、まだ上映されない。海外版を買って見た『パゾリーニ』と同じく『トマソ』もイタリアが舞台だった。そして『パゾリーニ』に続き、作家が次回作のイメージを練るシーンが出てくる。それは具体的な行為に及んでいるというよりも、『パゾリーニ』なら既にパゾリーニ自身の死が避けられないから、彼の脳内から離れられない(しかしそこに年老いた本物のニネット・ダヴォリがやってくるのが泣かせる)。今回も「実際のイメージ」「参考写真」、絵コンテとトリップ気味の音声に留まる。フェラーラの追う人物に未来はない(それも「男」と限定できるのか? レイプリベンジ物の傑作とも聞く女性主演の『天使の復讐』を僕はまだ見ていない)。映画の大半は「なぜ彼はここにいるのか」もしくは「いま彼はここにいるのだ」に尽きる。ギブソン原作の『ニューローズ・ホテル』90分のうちラスト30分はとりとめのないフラッシュバックが避けられない終末へ向けて後悔の念のように延々と続くのが、未練がましいどころか、映画の構成としては大胆かつ潔いとさえ圧倒されたのだが。
たしかに日本公開は配信以外だと厳しいのか? でも日本での上映がこんな調子だから、フェラーラが何者か掴み切れない。ハーモニー・コリンがフランスの放浪者風なら、フェラーラはイタリア映画? ロッセリーニのこととかどう思っているんだろうか。何度か出てくるテレビ映像のインサートもマルコ・ベロッキオみたく批評しているわけではない。単に自身がイタリア人の血を引いているから? しかし自分はイタリア映画のこともわかっているわけではないから、単に相変わらず、以前よりも信じられるのはデフォーとフェラーラ、その二人だけという印象強まる。あとはどれも妙に印象に残る、その場限りの人物との交流、シンクロ(『地球最後の日』の地球が終わる日にピザ配達をせざるをえない少年が母とスカイプをするシーンの切なさ)。そこに妻と娘がいて、生々しい妻とのペッティングに二回ほど時間を割くが、娘によって中断される。終盤の展開が若干微妙かもしれないが、それでも他の誰もやらなそうなラストが待っていて、さらに娘の踊りがある。あまりカラックスやコリンとか、安易に結びつけるのも何だが、作家とはこういうものなのか、それとも同時代的なつながりもあるのか、アベルフェラーラがこんな人だというだけなのか。あとはポール・シュレーダーの新作が待ち遠しい。
この種の作家そのものの人生やコンディションをニコラス・レイのように映画に刻ませるのは、うまく言えないが、『金魚姫』『空に住む』の一度死線を跨いだような感覚くらいしか、近年の(でもいつから?)日本では存在していない気もする。いや、実はすべての映画がそうなのかもしれないが……。鈴木則文追悼の映芸の座談会にて、澤井信一郎監督が鈴木監督から電話で「今度の俺の映画は一度死線を跨いだからな、深いぞ~」といった話をしていたというのを読んだが。