録画したバーバラ・ピータース『モンスター・パニック』を見る。悪名高い救いのないラストはすでに知っていたが、いい加減勇気を出して見た。養殖用に二倍近く成長するサケ(このあたりにロージー『鱒』を強引に連想)を食ったシーラカンスが出鱈目に進化してハンギョドンになり、犬を食い、若い女性を犯し孕ませる。誰が見ても『ピラニア』と『エイリアン』を交配させて出来たと思う映画(ググったらキャメロン『殺人魚フライングキラー』は翌81年らしい)。こう書くととにかく酷い映画だが、バーバラ・ピータースが他にどんな映画を作ったか知らないが、ステファニー・ロスマンみたく(?)女性のエクスプロイテーション映画作家として(雑な括りだが)再評価とかあるんだろうか。そう思わせるくらいには興味深い。アン・ターケルの佇まいとか、犬に対する憐れみとか。それでも最終的には何もそこまであからさまなというハンギョドンの目的。精巧な着ぐるみの怪物がついに姿を現した途端、全裸の女性に覆い被さる。いまだにある種のマニア向けにはあるジャンルのようで、だがポルノほど生々しくもない。男は食われ、皮を裂かれ、そして女は餌ではなく性の対象という、その身も蓋もない怪物の欲望。一方で終盤には絶対に酷い目に遭いそうなミス・サーモンが火事場の馬鹿力で逃げ延びて、男たちから憐れなくらいハンギョドンが袋叩きにされるシーンもあって、どう受け止めたらいいのかわからない。そして景気良い爆発がたまに繰り返される。
ともかく、いろいろ「だろうか」とか書く前に自分で調べるべきだろうが、洋書とか英語のサイトの検索とか、いわゆる研究をどうやったらいいのか、自動車の運転や、株価の動向や、壊れたパソコンの直し方や、一人暮らしの方法、大家さんやお隣さんとの付き合い方、日曜大工、料理、野球、再就職、偏屈なネットの映画好きのコミュニティからどうやったら仲間に入れてもらえるのか、などの謎と同じくらい研究はわからない。こんな自分に明日はあるのだろうか? そもそも調べるのが嫌いだからコメンタリーもメイキングも随分長いこと見ていない。映画への興味関心がないファストマンなんだろう。

自宅にてドン・シーゲル『突破口!』を見直す。先日のキノコヤの遠山純生上島春彦トーク(いろいろあって眠くなるんじゃないかという不安はあったが面白かった)にて、スラヴコ・ヴォルカピッチとドン・シーゲルの話(モンタージュの部署に配属されたドン・シーゲルが、バイロン・ハスキンからヴォルカピッチに会えと勧められ、シーゲルはヴォルカピッチに会いに行くも忙しく話す時間もないからと作品を試写で見せてもらっただけで先に帰られてしまい特に教えも受けられず、後日シーゲルはヴォルカピッチの事務所へフィルムを返却に寄った際に書きかけのコンテ的なものを盗んで持ち帰り、そこから学んで、シーゲルはウォルシュ『彼奴は顔役だ!』の恐慌パートのモンタージュにて評価されるという話)に加えて、最後に千浦さんが『アルカトラズからの脱出』のイーストウッドの作り物の生首がバレると思わせて実は既に戻っているとか、『突破口!』のことなどシーゲルは後年までモンタージュ出身の作家として妙なことをしているという話をしていた(ざっくりしすぎたがシーゲルの話がメインだったわけではない)。
それはともかくいろいろ耳にしては大して覚えていないから年に一回は見直さなければと思っていたのに、ようやく人生二度目くらいの『突破口!』を見た。『突破口!』という邦題は本質をとらえているような、何かにつけ自らの人生の局面というものがあるなら口にしてみたくなるが、自分はまだ何もできていず安っぽくなるから、この映画のこと以外で声に出したことはないと思う。でも突破口はここぞという人生の局面だが、それを単にメンテナンスが必要だったかのように、最終的にはなぜかさりげなく軌道に戻さなければならない。その意味で結婚とか葬式とかと変わらないのか? ウォルター・マッソーの周りにはもう信頼できる仲間はいない。だがその孤独に寄り添う映画というわけでもない。元を辿れば世の中が非情なものといえばそれまでなんだろうか。まず月から始まる。その夜から始める必要もないのに、日の出ではなく月から始める。この冒頭からしモンタージュという感じはする。ウォルター・マッソージョー・ドン・ベイカーも寝る必要があるからというように夜から始まり、朝を迎えて、そして散水機の周りをはしゃぐ子供に、妙に忘れられないへそ出しの娘の芝刈りが続き(自分が欲求不満なだけか)。老けメイクのウォルター・マッソーに至る。なんといっても炎に燃える主役の名前がタイトルという、状況を切り抜けるために痕跡を消していく男の話だから合っているけれど、果たしてこれが本当に映画の名前だったんだろうかと謎をかけられた気になる(これもウェルズの引用じゃないかと、人のTwitterを読むまで全く連想できていなかった)。小柄で高齢なのに相手の銃を抜き取るアクションの早さがかつての映画まんまの銀行の警備員(これも検索してボブ・スティールという西部劇俳優と知る)の死にざまが切り返しではなく映り込みというのが、最後まで顔ははっきりと見えないが画は記憶に残るという切られ役に相応しい扱いで感動する。あとはやっぱりダグラス・サークの『翼に賭ける命』を見返さなきゃと思う。

夜、サーク『翼に賭ける命』を見終えてから、無意味に一時間ほど夜ふかしし、しかし四時間ほどで目覚めてしまい、結局今の時間まで使い物にならず何もできなかった。サークに精気を吸い取られた、というわけでもなく、単に不規則な生活とスマホばかりやっているからだ。

マルセル・アヌーン特集へ行く。昼まで何もせずアヌーンのためだけに気合を入れた一日だった。『夏』の冒頭から、これはいける、という感じだったが、あっという間に振り落とされる。唯一無二! 胸のはだけた女性にミヒャエル・コールハースとくれば、最後まで読んでないものだらけだがジャン・リュックだけでなく大江健三郎のことがよぎる(あとはたしかに前田さんが言うようにラス・メイヤーかと言わんばかりのブンブン手回し走りがおかしい)。『夏』の冒頭もだが『冬』はシェイクスピアの話も出てきてウェルズとの接点はあるのか気になる。『風の向こう側』や『フェイク』や、国アカで断片やった『ヴェニスの商人』に近い感じはあったが。どちらも映画がどの時点か掴めずさ迷い疲れる。『春』になってようやく見やすくなった気がしつつ、やはりロンズデールよどこへ行くと言わんばかりに振り回される。おそろしくとりとめのない展開の割に、異様に編集されているが、それは計算済みのことなんだろうか、わからないどっちつかずさが物凄く面白いところなんだろう。何にしても感度が鈍く誰とも一言も喋った気がしないまま全ての身の回りの物事から置いていかれる。知人友人らしき方々はたくさんいたが、どなたと話したらいいかわからないうちに何も話せなくなるが、自分程度にはどうせそれくらいが相応しい。誰からも映画の話をする相手として生涯見られず、しかし何を自分はしたいのかも何が何だかだが、とにかくマルセル・アヌーンに疲れたのはショックだ。