ホン・サンス『イントロダクション』。クレジットによれば2020年2月〜3月撮影。昨日のアヌーン『夏』とほぼ同じくらいの66分、モノクロ。こちらは冬の映画だが。第2パートの舞台はドイツ。見ながら、かつて某所でのルドルフ・トーメ研究会に呼ばれなかったことが悔しくなった。やはり日頃の行いが悪く、知人友人でルドルフ・トーメをほとんど見ていない(短編のみ)のは僕だけになった。僕以外はルドルフ・トーメを見た。それはともかくアパートの部屋を若い女性へ与える二人の女の黒い服と喫煙が、窓辺の白い眩い光とのコントラストもあって引き締まる。3回の演出が異なるハグ、病院のカーテン、ズームと鳥の声、映画でキスできなかった元役者へ酔って激しく説教してしまう先生、あなたの目になりたい、海に入る若者など印象に残る。
『あなたの顔の前に』、一転して夏の映画。そしてまたしても神への祈りから始まる。酔って火照った肌が色っぽい。終盤のアレが嘘かもしれない、というのが捻くれてるなら、それがいつやってくるかは医師にも誰にもわからないし、そう思いながら翌朝(窓からさす自然光がまた違った切なさがある)の留守電とリアクションがまた違った意味が出てくる。というか意味がどうより、さすがとしか言いようがない。それからの引いていく画も忘れられない。いつもではないが『それから』など何回かに一回、言葉にならないようなラストを(それもまたイントロダクションというやつか?)持ってくるから全く油断できない。

それにしても、こうも「どっち派?」と聞きたくなるほど違う映画になったこともないんじゃないか。

 

ジェームス・マンゴールドを見始めたのが(いつとは言いたくないが)凄く遅くて、もうコンプレックスというか、それだけで自分はその程度の存在だと諦めるくらいには遅い。なぜ避けてきたのかというより、なぜ見なかったのかは、とにかく怠け者というか、マンゴールドが僕の見たそうな話を撮っていなかった!と開き直り(ンなわけない)。アメリカ映画を真剣に考える人達と自分の間の距離というか、そんなだいそれたことじゃなく、そもそも自分と普通の映画好きとの距離か。まあ、正直に言えばロン・ハワードも同じくらい疎い。そもそも自分がどの程度の何者かを書くくらいしかやる気がない時点で映画的じゃないだろう、たぶん。
それくらい今日まで『君に逢いたくて』『コップランド』(予告はリアルタイムで映画館で見て「警官ばかりの島で犯罪って!」とは思っていたんですと言い訳)『17歳のカルテ』を見て、一応繰り返し言い訳をすれば初見ではないが、それでも改めてこんな映画をちゃんともっと早く好きになれていれば日頃の甘えもなかったかもしれない。別にマンゴールドの映画に徳のある人が主役なものはたぶん一本もないが、それでも今更しみじみしてる。あんなアメリカの寒々しい年中秋模様みたいな町には住んでないし、玄関先もあんなじゃないが、熱帯夜にはちょうどいい。『17歳のカルテ』なんか冒頭に戻るようで戻ったのかよくわからないズレた感じがあるのに、それでも余程ひねくれていない限りは着実に前進したんだと思わせてくれる。アンジェリーナ・ジョリー(雑に括るが、岡崎京子やまだないとの世界っぽい)とウィノナ・ライダー二度目の対面が一番好きで、ウィノナからアンジーに切り返すとアンジーの目線がちょいズレてるというのがなんかいい。『コップランド』でもスタローンがかつて水中から救った女性の家で、彼女の(少なくともスタローンにとってはロクでなしの)夫の写真ふくめ、彼女の側を玄関からジッと見てたはずなのに、彼女の側から切り返すとあらぬ方を見ている視線の落ち着かなさも何となくいい。というか序盤の酔いつぶれるスタローンを遠くから見つめるレイ・リオッタからして何だかいい。というか『君に逢いたくて』がやはり何となく何もかもせつなすぎる。小津好きと言われたら、もうそれ以上なにも言える気がしないが、なにをやってもペキンパーでさえも小津のカットバックの呪縛からは逃れられないという話もあったが、なお一層小津を見て忘れないことでしか小津の呪縛から逃れられないというような話も改めて思い出した。