自宅にDVDが届いたから恩地日出夫伊豆の踊子』(67年)を見る。
黒沢年男の書生?と思いながら見始めたけれど、これも良い映画だった。終盤の海の実際に見ても、こうは見えないんじゃないかという色が凄かった。結局黒沢年男がお座敷では見なかった(窓越しから一座の芸を見る素晴らしい高低差の変化していくシーンはあるが)、内藤洋子の踊りが演じられて、こういう二人は結ばれないということか、言葉にしがたいけれどはっきり印象付けられる。
短い出番だけれど二木てるみ(『かあちゃん』のあの子がこんな最期を迎えるなんて)と小沢昭一がよかった。

ジョー・カーナハンの見逃していた『クレイジー・ドライブ』を自宅にて見る。適当な邦題だが、クレイジードライブとしか言いようのないクレイジーな、もしくはカオスというか、『コンティニュー』も詰め込んだ映画だが『クレイジー・ドライブ』はさらに何が何だか不運の極まった一晩の映画だった。

シネマヴェーラにてジョン・フォード『戦争と母性』。たぶん珍しく正面からのカットというか、人物から見つめられるフォード映画。しかも母と息子がテーブルを挟んで互いに正面を向いているのを横から撮ったカットがあっても、息子が正面からこちらを見るのに対して、母のカットはやや斜めから切り返すというように、正面を向いたカット同士で切り返してはいなかったんじゃないかと思う(記憶違いも多いので不安だが)。またはフランスでの髭を生やした老人の正面からのカットに対しても、母は怪訝な顔をして斜めから見ているという無意味だが微笑ましい時とか。一方では横から撮られた四人の母という(その一人一人の名が発せられる)不思議と印象に残る。
母が見送るものとしての息子の後ろ姿のロングから、息子が正面向いて石を投げる、そして水面に反射した恋人の姿が揺らめくという、いくつかのとにかく印象的なカットと、自分が忘れてしまったカットがつながっていく序盤から息を飲む。そして母子向かい合っての食卓から、気がつくと、ランプを手にした母と息子が暗い廊下で、単におやすみを告げるには互いに別れ別れになるしかないと(いま思い返せば)いう状況でのカットバックが続く。
正面からのショットはいくつかのテーマに触れながら出てくる。おそらくは何よりも写真として。または駅で一匹犬だけが目を息子の恋人に向けているかのような偶然か計算かわからない豊かなカットとして。または船が出てから、パイプを咥えた「豪傑」でもあり、同時に「女性らしさ」と言ってもいいものを誰よりも誇っているような、また別の「母」と「あんたカッコいいよ」としか言いようのないガールズ的な二人並んだショットの感動(このくだりは本筋より泣かせる)。
実に無数の「母」が誰の親かもわからず出てくるのだが(一方にゼラニウムや十字架とともに無数の見えない息子たちがいる)、やや『セブンチャンス』の花嫁のようにも、ある意味では石田民三の映画のようで、イーストウッドと変わらぬ『パリ行き』でもあるような、ともかくシレッと(?)「女性映画」というか「観光映画」というか、そのどちらの呼び方も合っているようないないような映画で、それは序盤の息子が犬をベッドから突き放そうとしているのがいつの間にかじゃれ合いになっていくのが、出鱈目なようで自然でもある魅力的な脇の出来事と近い気がする。これを全編貫いているというと、また違う気もするが、やはり終盤の横から立場の異なる母同士の和解まで、犬とのじゃれ合いのように、人はこうして動物のように和解し合うかもしれないという様子がとにかく感動的だった。一方で犬はますます自由に、それでいて映画の筋道に外せない存在になる。
さらには列車が走る斜めからのショットの運動を、花束が美しく印象づける。