三回目のワクチン接種を受けてから、翌日の夕方シネマヴェーラの郷鍈治特集にて葛生雅美監督『昇り竜やわ肌開帳』。しかし映画を見ながら副反応なのか一気に肩がこって眠気に襲われ、三分の一くらいは覚えていないし、由利徹の出番は丸々見逃した。しかし意識がはっきりしていても、面白いところもあるような、単につまらないような、何とも散らかった、まとまりのない困った映画に変わりない気がする。いや、でも見直したら非常に愛らしい映画かもしれないからわからない。そんなことしか書けないのは癪だが。石井輝男監修になっているが、他の『昇り龍』と比べて(『鉄火肌』もたぶん見ているが『怪談昇り龍』しか思い出せないが)日活の映画という印象で、そういうギラギラ感はなく地味といえば地味だが、伴淳三郎がいきなり出てきて贅沢というよりも、アドリブだか何だかグダグダまくしたてて違和感だけ残す。しかも終盤に小林旭が出てきて、藤竜也の出番を恐ろしい勢いで奪う。川地民夫はともかく藤竜也は亡骸まで不憫。野呂圭介は清順の時より更に目立っていて、これも悪目立ちというか……。そうして振り返ると郷鍈治が一番良かったと思う。この悪い意味で散らかった感じに(やはり清順は凄い、というのはあんまりにもあんまりな感想だが)豪華さよりも、このままピンク映画や自主映画の映画へ移りそうな歪さが記憶に残りそう。

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急遽やはり行かねばと思い、急いで新幹線に乗り仙台まで着いたが、低気圧と倒木により仙石線は大幅な減便に加え、目的地の4駅前までしか走っていないから、仕方なくタクシー待っても行列できてるから、歩いて会場まで向かったが、朝起きた段階では自分が仙台の車しか走ってない場所で歩いているとは想像もしていなかった。

倒木と低気圧と日頃の行いの悪さから上映を逃したため鈴木史さんの展示、『ミス・アーカディン』(あえてでもなくカタカナにしてしまいましたが)。感想のメモとして。やはりタイトルからして、鈴木さんはインスタレーションにおいて特に自己と主題と文脈を明確に指し示すわけで、そのタイトルから想像できること自体が明瞭であり、展示自体はあえて明瞭さ自体とすれ違っているかもしれない(もしくは僕自身が理解しきれていない面もあるだろう)が、それ自体も強みであり葛藤でもある。そして本作でも手元を見る行為、もしくは俯いた姿勢の維持が図られる。この姿勢は『東は東、西は西』での引用のように、ユスターシュまたはブレッソンという文脈からも導かれるものであり、彼ら(と括れるか)が世界に対して取った態度の一つかもしれない。今回はゴミとキネトスコープ(手作り)によって見下ろす姿勢を強いられるが(インスタレーションを通しての、映像を見る姿勢への距離感、映像と向き合う際の観客という集団ではなく一対一の関係への接近)、そこに映るカメラからの視点は盗撮的な背徳感を誘う足元、膝のあたりから天井へ、テーブルの下から机上のやり取りを覗き見る行為になる。下向きの姿勢のはずが上向きの視点になり、ある種の『インターステラー』的に重力が捻じれる。そこに見ること自体の後ろめたさもある。ただスマホエジソンを出会わせる文脈(および逸脱)が、この作家らしい。ゴミたちに性別による差異はあるのか。また一方では礼拝堂を模した隣室にて上映は行われ、そこでは観客としての視点は映画館に近く正面を向く姿勢になる。映画館≒礼拝堂としての意識は上映作品の主題とも関係あるといえるのか。この展示では鈴木史という人物の声と背中が見え、聞こえる(それはキネトスコープを模した装置からさえ音漏れしてくる)が、それをもって見る側としては鈴木史という人を見知った気にはなってはならないという倫理を俯きの姿勢が要請する。礼拝堂での上映作品に抜粋として引用される『市民ケーン』は投影されたものを撮っていることで歪み、オーソン・ウェルズの顔は下半分、顎からしか視認できず、一方のビンタされるスーザンの目つきはより強調されることになり、この俯いた(字幕を追うような)目線だからこそ見える画かもしれない。ただし展示も十分な時間をかけて見れていず、細部の言葉に触れ切れていず、これまた一面的にしかとらえられていないかもしれない。

ジョー・カーナハン『炎のデス・ポリス』を見る。予告は酷い邦題だと思ったのに、まさに炎のデス・ポリスだった。
いまトニー・スコットを見ると、たしかに生きるか死ぬかのレベルで追い詰められた男への視線に、どのような理由かはともかく自死を選択することになってしまった監督だからこそ引き出せたものがあったのかもしれないけれど、いや、そういう言い方だけはすべきではないというのもわかっている。
ともかく予告の軽そうなノリとは打って変わって、しかし重苦しくもなく、ただどっちを選ぶのが最善かも結局わからないし、そこに少しも苛つかせない。どっちを選んでも、あの警官も殺し屋も進む道は映画が終わろうとも(それがデジャヴというか何度繰り返し同じ危機に対峙しようと)ブレない。各々がやるしかない道のあることが、死んでいった者たちにも変わらずあるからか、彼らの遺した物も響いてくる。そこは生き延びることが目的という人々の中でも特に信念の歪んだ裏切り者が酷い目に遭う時の不謹慎な愉快さも凄い。

スコット・デリクソン『ブラック・フォン』これはタイトル通りに黒電話の映画だった。しかもラストは『恐怖のまわり道』みたく電話が凶器になるから驚いた。しかし可愛げもなく凶暴そうな学生を2名もターゲットにした犯人の動機は気になるが明かされぬまま。喧嘩強い学生ってターゲットにするには無茶苦茶怖くないか? あんなラスト呆気なくK.O.されるのに……。「学生時代にガキ大将になれなかったから将来の夢はガキ大将」(@ドラえもん)みたいなやつか? そして警官が妹の夢を頼る心霊捜査もグダグダで、雰囲気や学校の喧嘩とか悪くなさそうで、わりとしょうもない映画というか、かなり微妙だった。

早稲田松竹にて『フレンチ・ディスパッチ』も見直す。初見より、ずっと素直に感動する。こんなアンソロジーみたいな素敵な映画をもっとずっと上映していてほしい。あとレア・セドゥから目を離せない!映画だったのが、最初はピンと来ていなかったティモシー・シャラメの第二話も素晴らしい。あの感電死直前の青い画面になった瞬間ゾクゾクする。第三話の勿体無いシアーシャ・ローナンもこの世のものと思えぬ(というか現在の映画と信じられない)儚さ、そしてあの銃撃戦とアニメにも余韻などなくてもビシビシとグッとくる。『炎のデス・ポリス』と『フレンチ・ディスパッチ』で、だいたい映画に求めるものはブチ込まれているかもしれないが、まあ、そう簡単にはいかないだろうが。