前の晩に恩地日出夫『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん殺人事件』を見たせいか、うまく寝付けず仕事でミスを繰り返す。
このラストの晴れなさをもってフライシャー『十番街の殺人』を連想していいとは思わない。終盤に平塚刑事役で芦田伸介が現れて(詳しくは知らないが彼も帝銀事件の捜査班の一人なら一切の関係がないとはいえない)、事実ならあるはずのアリバイ崩しはあえてほぼ台詞に少しよぎらせたに過ぎず、ただ母の土下座を演じて吐かせただけとも見える。彼に悪い印象はなくても(「俺は組織操作というやつは嫌いだ」)、この別件逮捕に人権の問題がないとは言えない作りになっている。それほどこの実録モノには刑事モノらしい点と点が結びつくような、多少は気が晴れるものは何もない。そもそも実録モノになった時点で刑事モノとは異なるだろうが、やはり恩地日出夫の『あこがれ』を見直したら、それまで再会したとは知らなかった乙羽信子母子のきっかけに陶器を撮るカットにヒッチコックじゃないがマクガフィンというワードを連想できるくらいは、ドンと構えたショットを撮る監督らしい映画だった。その技巧派らしい冴えは「刑事よりも厳しい親族からの査問」でもラジオの存在とカメラの移動の面で感じられる。何よりそれは平塚刑事のアリバイ崩しよりは事件解決に繋がる流れにある。
まず泉谷しげるが帰省をしても荒れ果てた地元のバスに揺られながら、やはり両親からの借金を尋ねるまでもなく諦め、四日四晩の野宿に費やす序盤からして不毛な、ざっくりした時間が、それでも95分のテレビの尺に収まる範囲で映され(しかしフライシャーみたく計算された短い尺ではなく、泉谷しげるを怒らせるくらいには追い詰めるものを容赦なく切り貼りしたんじゃないか)、この野人化は後の展開を予告しているが(取り調べで狂言か猿真似を始めることにもなる)、それでいて回想からも事件からも逸脱した生生しさがある。一方の事件も、真相こそ実は曖昧だが(彼の証言は現実には故意か過失致死か一転していて、それは彼の死刑判決を本来は揺るがすものらしい)、それでも吉展ちゃんの水鉄砲に似つかわしくないライフルらしいモデルガンは、まだ歌手としての泉谷しげるの風貌とセットで、水飲み場から公衆便所への横移動が妙な胸騒ぎを呼ぶ。また50万という身代金の額の、被害者と捜査本部からしたら「営利目的の誘拐にしては」少額に対して、泉谷しげるの周囲では、ある程度は大金であるという格差は『天国と地獄』の事実からくる引用をさらに題材の面で強化する。ここには生まれもっての差が紛れもなく存在する。恩地日出夫は底意地悪く幼少期の泉谷しげるの足の化膿した過去を映した直後に、吉展ちゃんとの出会いを繋げる。
先日は恩地日出夫メインの『人間の証明』も見たが、ラストカットには荒んだ気にさせる。市原悦子は相変わらず凄く、殿山泰司はいつになく耳のデカさも生生しさも容赦なく荒んだ気持ちにさせる。靴の足音にウリ・ロンメルの実録映画も思い出した。恩地日出夫の追悼上映はあるのか。

コリン・トレヴォロウ『ジュラシック・ワールド 新たなる支配者』を見る。始まって早々、ロメロのゾンビ映画のように恐竜が続々と出てきて、これはもう世も末というか、無茶苦茶じゃないかと思う。『猿の惑星』三部作以上にジュラシックシリーズのことが頭から抜けていて、あの女の子の設定も全然思い出せず、ゾンビ映画ほど恐竜たちの存在する世界の有り様というものにも馴染めるかわからず、ただ冒頭から問答無用に恐竜と車や馬で並走する。オタクらしくやりたい放題の勢いで(あの短い光景は『空の大怪獣Q』か?)、最初10分くらいは傑作になるんじゃないかと期待したし、クリス・プラットが恐竜に輪をかける序盤が一番よかった。しかしレジェンドが出てきたり、インポッシブルかワイスピ化したり、ランボー化したり(でも『グレムリン2』みたく盛り上がることはない)、ハリーハウゼンからバート・I・ゴードンまで特撮に疎い自分だけれど巨大イナゴが大いに話に関わってきたり、別に飽きることもないし、悪く言う気もおきないが、諸々期待したほどのことにならないまま、ぶっちゃけグダグダな終わりだった。あのバイオなんとか社がいろいろユルすぎて映画としてもダレた気がする。結局イナゴのことより恐竜親子再会にピント絞るほうがいいんじゃないかなあとか、やっぱスピルバーグの恐竜は怖かったよなあ、と今更文句つけてもしょうがないが。
岩波ホール閉館に駆けつけるべきだったかなあと悩んでしまう。
そもそも腰痛と職場からの電話のせいで気分が悪く、映画の印象も微妙になった。もしも自分が優れた文才の持ち主なら、そのような事情も面白おかしく書けるだろうが、残念ながら努力の大嫌いな僕にはそのような文章を書いて少しでも読んだ人を嫌な気持ちにはさせないという気遣いはできない。

『こちらあみ子』見ながら具合悪くなるが、快復したからやはり『こちらあみ子』が悪かった。まあ、辛い話なんだろう。その点やはり荒井晴彦氏の言葉はピントずれてない。まあ、微妙な映画なのに微妙と言いにくいアレだ。これはこれでいいんだという感じが気に食わないといえば、それ以外ない。あと素人目にはカメラ位置もなんか違うんじゃないかと、妙に気合ある長回しが序盤にあるだけで思ってしまう。ちなみに山中瑤子の『あみ子』とは全くの別物と見て知った。アンゲロ相米卓爾風のラストとか、たしかに「大丈夫いったらこの映画の観客になれんわ」と思った。微妙の一言に尽きる。同じ映芸にある石井隆追悼にあるように「僕なんかねえ」といえるほうがいいんだろうと思ったら秋元康の詩も『僕なんか』なのでいくらなんでも秋元康のアイドルグループに「僕なんか」はないだろう、もう何もかも駄目な気分です。