ナンニ・モレッティ『三つの鍵』。アスガー・ファルハディの映画でも見てるのかと、最初のうちは構成に入りにくさも感じたけれど、ローマ法王ベルルスコーニの映画の作家がそう大人しくまとめるわけもなく、それぞれの結びつかない意図した散漫さが、むしろ三つの家族の話を交互に進めるからこその時間経過の豊かさが成し得たんじゃないかと気付かされ、やはり物凄く良い映画だった。猛烈なアプローチを仕掛けてくる隣人の孫娘あたりから雲行きが一気に怪しくなり、特に「未亡人」と呼ばれる伊藤沙莉に見えて仕方ない母親の(ジャーロのことなんかどうでもよいというか嫌いそうなのが明らかな『夫婦の危機』のこともよぎるが)危うさと色気が凄いことになっていく。赤ん坊を抱える人物のバリエーションを見れる映画でもある(それは母親に限らない)。さらにそれぞれの話に未亡人は現れるが、終盤になるほどロッセリーニのバーグマンに捧げられたような佇まいになり(窓を開け放した家で留守電をかける場面が印象に残る)、ロッセリーニの用いなかった(ワンスアポン〜とも異なる)スタイルの語りの意義が一層強まる。

菊川にて『ゴダールのマリア』。にしても菊川いくたびにクローネンバーグ親子の予告を見て「ゴダールとは真逆だな」と思うが(息子はともかく親父の『クラッシュ』は好きだが、やはりあのテーマ曲がかかってほしいのに予告には無し)、別に映画館の方針に文句つけたいわけではなく、ともかく『マリア』は本当にクロ親子と逆方向の生命力が炸裂。ミエヴィル『マリアの本』はやっぱり凄く良いのだが、「その頃」とゴダール『こんにちはマリア』に続く。『奇跡』にて終盤の蘇生が始まる際に、ヨハネスの隣に少女がインして手をつないで、そして事態へのリアクションのショットを見ているとドライヤーの短編教育映画のどれかみたいだと思うのだが、それにちなんで今更ゴダールに「ドキュメンタリー的な」というのは野暮すぎるが、ミリエム・ルーセルの陰毛や唇がどうの言うのもどうでもよくなるくらい凄い。誕生の場面か、空へガクッとズームするのがまたこれが許されるのかと驚く。受胎告知の話が「結婚」(性交のない妊娠)をめぐる、ある種の屈折した映画になっているといえるのか。あと繰り返される月を見ながら『魔法少女を忘れない』のことも今日は思い出した。あれはあれで最初のカットはどれといえるのか謎の仕様の映画だったし、ラノベ原作の三作はどれもドキュメンタリー的になりえなさそうな題材でも、バスケや自転車や季節感だったりにそうした視点は必ずあった。何気に四季の映画でもあった(ゴダール農作業しないだろとか叱られそうだが)。あとは「ガブリエル叔父さん台本と違う」も忘れてたが面白かった。シナリオとはそういう存在云々あるのだろうが『デッドドントダイ』の宇宙人なんか思い出した。

セリーヌ・シアマ『秘密の森の、その向こう』。タイトル通りといえるけど、『プティ・ママン』という題はさらにわかりやすかった。「明日へ瞬間移動だ」というセリフで消灯した直後に、明日の森のカットへジャンプするという、台詞と映ってることの直結するわかりやすさとか、やっぱ微妙というか、是枝の「生まれてきてくれてありがとう」と言わせる演出とそんな変わりない。そりゃ母子どちらも訴えかける顔はしてるが雄弁すぎないかとか……絶対に切り返しで詩的な台詞を言わせる。未来の音楽らしきものも聞こえてくる(ごめんなさい趣味じゃない)。まあ、でも多くの人の「好き」に対し、自分みたいな天の邪鬼は過剰に斜に構えて嫌いポイントを探しているかもしれない。ただ秘密基地?は無駄だった気がしなくもない。とりあえず本作を「ぐっと引き締まった」と書き、モレッティの新作を「散漫」と書く、ベテランに厳しいキネマ星取り表の研究者のことが個人的に憎たらしいから、この短くて食い足りない映画に何もそそられない。まあ、赤ん坊の人形出したりするあたり、ははあ、という感じか。

安川有果監督『よだかの片想い』を見る。他人の視線を集めたことのある人物が『ミューズ』に続き主役で、「モデル」であることを引き受けた女性が(それが男性でも同じことになるのか?)創作の元でありながら、創作過程の「現場」に関わりきれず置いていかれる(悪気はなく身体がぶつかったりする)というのも通じる。だがどちらが「映画を作る」という場なのか、という時にやはり現場以外での「恋愛≒労働」といっていいのか、この現実にどれほど何らかの創作の場の根っこにあるかどうか、まあ、ある程度は実在しても本当に影響はしていないのだと言い合うこともあるだろう関係が比重を占める? とにかくモデルとなる彼女にとって映画の企画は止められない。いや、止められるのか?(告発として)。
監督とカメラの関係はなくはない。琵琶湖にて監督が写真を見ながら「キモい」というのは彼女ではなく自分自身のことだろうが、ともかく中盤には監督が撮ったらしき彼女のブレた写真が出てくる。監督と後輩どちらもある場面で自分の責任をとれないといってもいい話し方をして相手(女性)に言い返される。ともかく事は進みだしたら止められない。事態は監督が痣のある彼女自身を主役にすれば話はもっとシンプルになるが、そうは行かない。
視線を集めた「私」と私自身の間にズレはあるのか、その「本当の私」らしきものを見てもらうことは可能か(そもそもそれは必要なのか)、つまりカメラや、誰かに見られている「私」という点から自由に振る舞えるのかという点で見れば、やはり火傷した先輩との切り返し(たしかに安川監督のこれまでの映画でベッドシーンと、あの出血と共に一番緊張感がある)の後に、あえて痣がファンデによって(おそらくある程度のレベルで)消えるというのが、「本当の私」らしきものを観客が見れるのは、やはり映画が作り物だからだという気になる。いや、それより出血のほうが重要か?それにしても自分の頭の中がぐちゃぐちゃして、まとまらない。

午前中久々に自宅にて『勝手にしやがれ』を見直した。『勝手にしやがれ』を映画館で見たことはないし、いま上映して余程の何かない限り見直さないんじゃないかという気もしたが、『勝手にしやがれ』だけは素直に好きとか面白いとか、そもそも何か言えるかわからない。凄いと思うには生まれたのが中途半端すぎたのか、ただゴダールが『勝手にしやがれ』を「ノワール程度にはリアリズムを目指したつもりが『不思議の国のアリス』になった」といったことを書籍の「映画史」で書いていたが、リアリズムかアリスか曖昧な映画たちといえば『グッバイ、クルエルワールド』も『よだかの片想い』も、それこそ大半の映画が当てはまるかもしれない。ただアリスといえばどちらかといえばリヴェットかもしれないが、『勝手にしやがれ』のベルモンドも久々に見たら、序盤ほど何なんだとムカついてくるくらい、それこそ警官殺し、いやジーン・セバーグがいなければなぜコイツが主役の映画を見てるんだとなりかけるが、まあ、このカップルは無茶苦茶いいというカップル未満でしかないかもしれないのだが、そんなところに尽きるのか。しかしジーン・セバーグって洗練そのものというか、比べるとアンナ・カリーナの映画を見直して大して気分の盛り上がらない理由はカリーナから自分の心も離れたか? 煙を吐きまくるからといって、今更「接吻といえば、喫煙といえば、『勝手にしやがれ』」とも恥ずかしくて言えないが。

安藤勇貴『優しさのすべて』蓮實重彦のコメントがあるから見た。なんとなく予想した「私達ができる優しさはこのくらい」といったニュアンスの映画。キスから始まる導入部からこっちが欲求不満なのか裸は後ろ姿くらいだが何もかもエロく見えてくる(特にダンス教室とか)。51分という時間が、これまた絡みを入れたら完全にロマンポルノか、ピンクというべきかともかく成立するに違いない。それはエロというより男女のろくでもないことやるしかなさそうな具合とか、まあ、カメラの動きが近いというか。勿論ベッドシーンが欠けているという意味ではなく、逆に見せないことで、よりこちらの欲望を高めてもいるんじゃないか。主役にしては顔が濃いと思いきや主役の彼がトイレに行ってる間に彼女を追うカメラの動きとか、路上での長回しと録音とか、素人目には何だかちゃんと凄いというか才能がありそうなと感心してしまった。特に彼女の話がたまにマジでシリアスに脱線しているのにそそられた。ただ今後どうなるのか。なんとなく、これが90分くらいの長編にそのままなると失われそうな何かがあって短編に留まった気もする。やはり『ママと娼婦』を目指すのか?(いけるのか?) ピンクも先はいよいよ厳しいだろうし。やはりキノコヤ映画?

菊川にて『フォーエヴァー・モーツァルト』を見直す。しかし展開が早い。意外にこれほど飛ばしている気がするのは『勝手にしやがれ』以来か? こうされると、映画に出てくる人物たちのなす術のない感じは強まる。これから『愛の世紀』まで長編劇映画に5年のブランクができるのを思うと(『映画史』の作業はあるけれど)この比較的とっつきやすい映画が(序盤に主要人物が集っての食卓が用意されている)なかなか厳しい時期だったのかと、そんな話を先日聞いたからか、やや乗れなくなる。そもそもゴダールが死んだから見直す自分自身がますます嫌いになってきたタイミングだったかもしれないのだが……。まあ、タイミングがないと見なくなってきたというのが、ますますリュック・ムレのあの映画みたいだが。